モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

「愛」にまつわるよしなしごと

 息子インフルエンザ罹患で一週間の停滞期を過ごしたため、ブログの更新が久しぶりとなりました。いやもう、あかんです。あれやこれや策を弄して、息子にいろいろと成長が見られて喜んでいた真っ最中のインフルエンザ。全て振出に戻された感じでした。一週間の自宅幽閉で、これまでの定着させていた生活パターンががらりと変わり、またまた多動と癇癪が復活中。母、疲労困憊であります。

 

さて、自宅幽閉中に、なんだか気持ちの悪い(しかしどこかで見覚えのある)議論がうじゃらうじゃらと湧いていたため、いろいろと頭ン中交錯するよしなしごとをまとめておきたい気分になりました。

 

議論の発端はこれ。「(親が子を)虐待するからと言って愛していないとは限らない」と言う発言をされた方がいたと。この言葉の気持ち悪さにゾゾケを覚えた人たちが、これに猛然と反論したという流れ。

 

虐待でもモラハラでもパワハラでも、とにかく支配被支配がつきまとう関係においてね、この「でもおまえのことを愛している」という「愛だろっ愛!」の正当化ってのはもう珍しいことでもなんともないというか。支配者の常套手段なわけですね。

 

かくいう私も、母親の過度な干渉に精神まで病んでしまった時期があったわけですが、「この人(母)が私の苦しみの原因なのだ」ということが分かっているのに、「この人の干渉から自由になりたい」と心から思っているのに、それを指摘したときの母が「母親の愛をあなたは蹂躙している」と泣くと、どうしようもない罪悪感に打ちのめされたものでした。「お母さんは、あなたのことを愛しているの。分かるでしょう?」と言われると、それまであんなに反抗していたのに、言葉が出なくなる。そして、涙があふれ出てくるのでした。その涙はなんだったのかと言えば、「愛している」という言葉を前に自分の怒りが封じ込められてしまう悔しさと、そしてやはり自分が何よりも希求していた「母の愛」を目の前でちらつかされて、どこかで嬉しかったのだと思います。

 

私はずっと母の愛を求め続けて生きてきました。自分がどんな状況にあろうとも、自分の全てを受け止めてくれる深い愛情を、求め続けてきました。私は母に満たされない愛情を他人に与えられることを求め、友達や恋人とも程よい距離感を保つことがどうしてもできませんでした。友達にも、恋人にも、「全てを受け止めて欲しい」という態度をとり、私の激しい感情のアップダウンを前に、だれもが私の前から去っていきました。「自分は愛される価値のない人間だ」という思い込みによって、友達や恋人を試す行為をやめることができず、私と関わった誰もかれもが疲れ果て、お互い心身ボロボロになって関係終了となることがほとんどでした。

 

私は数限りない「失敗体験」から人との距離感を学ぶことができたわけですが、失った人脈は膨大なもので、多くの人が「成功体験」を積み重ねてより良い人生を勝ち得ていくなかで、私は「失敗体験」からより良い人生を得てきました。得た結果が同じでも、心身の疲弊と傷つきは比にならないと思います。その疲れが爆発したのが、私の二年間のうつ病時代だったんだと思います。

 

うつ病にかかり、トイレに立つことすらまともにできなくなり、私は大学院を中退しました。もう少し頑張れば、研究者として活躍する未来が見えていた頃でした。それなりに成果も積み重ね、本当に「もうちょっと踏ん張れば」という時期でした。

 

私は死ぬか生きるかぐらいの苦しみのときにありました。人生で一番苦しいとき、こんなときこそ母は私に優しい言葉をかけてくれるだろうと心のどこかで期待している自分がいました。病床から「鬱病で起き上がることもできない。大学院を中退することにした。」と電話をかけた私に、母は泣きながらこう言いました。

 

「人に言うときは、大学院は『満期退学』って言っていいの?『中退』って言わなくていいのよね?『中退』は恥ずかしいよ。」

 

私は、自分の中の全てが瓦解する音が聞こえた気がしました。あのとき頭に響いた音は一生忘れません。全てが崩れた音でした。母が泣いている理由は、私が憐れだからではありませんでした。『中退』って人に言いたくない、それだけでした。

 

それは私がずっと求め続けた「母の愛」に絶望した瞬間でした。その瞬間は、いともあっさり訪れたのでした。全てが崩れた感じがすると同時に、まるで霧が晴れたような気分になったことを今でも思い出します。そして「母の愛」に絶望したこのときから、私は周りとの付き合い方が大きく変わってきた気がします。深い愛も、全てを受け止めてくれる愛も、私は求めることはなくなりました。自他の領域を確実に掴み、他者の生活や気持ちに侵入するような真似をすることがなくなりました。「あ、人間関係の距離感ってこういうものか」と、ようやく体感することができるようになりました。それは私の「生きづらさ」「人間関係の不得意さ」に革命をもたらしたと言っても過言ではありませんでした。そう、私の人生は、「母の愛」にさようならを言った瞬間から始まったのでした。そして不思議なもので、母の愛を諦めたときから、私を引き立て、理解してくれる人たちが沢山現れるようになりました。そういう人たちの力で、私は自分の人生を立て直すことができました。母の愛を諦めたら、周りに母より大切な人が沢山現れたのでした。

 

「母の愛」を手放したあの日から、私は「愛」を求めて生きていくのではなく、「楽しいこと」を求めて生きていくようになりました。誰かの愛じゃない、「自分が楽しい」と思えること、それを決断の基準にするようになりました。そうしたら、面白いほどに人生がうまくいくようになったのです。

 

「愛」に絶望して初めて、見えてくるものってたくさんあります。

 

あのとき私が「母の愛」に絶望しなかったら、私は今でも「愛」という漠然としたものの奴隷だったでしょう。

 

「愛」を信じていたい人は信じていればいい。きっとその人はそれで幸せなのでしょう。でも、「愛してるなんて言われたら、熨斗つけて返してやる」と思うのであれば、それも自分が苦しみのすえ手に入れた、一つの自由の形だと思うのです。成果だと思うのです。

 

それでもあのときの絶望した気持ちを思い出すと、今でも胸がチクッと痛いです(笑