モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

絶望でも希望でもない何か

四月、息子の入園と娘の進級が重なり、とにかく毎日のように学事関連の雑事が積み重なってくたばっています。特に息子の入園式までの数週間は、私も異常に緊張してしまい、悪いシナリオばかり考えては夜もよく眠れず。結局、幼稚園側の配慮で、娘が息子の隣に同席。娘の声かけに安心したのか、二時間の式典を静かに頑張ることができました。

 

息子は相変わらず体操教室で集団行動からの逸脱が激しく、今月いっぱいで退会することにしました。幼稚園では特に逸脱しているという話は聞かないので、恐らく体操教室は彼にとっては相当苦痛な場なのでしょう。息子は不安になったりストレスが極度にたまると、自閉的な症状が出ます。体操教室は、30分もすると、耳を塞いでキーっキーっと奇声を発し始め、「もう僕は帰るんだ」「もうやめる!」と騒ぎ始めます。周囲の目も痛く、私自身も毎回毎回奈落の底。涙を流さずに帰ることがない感じです。

 

「申し訳ないんですが、四月いっぱいで退会しようと…」と先生に言うと、理由も聞かれず、引き留められもせず。こちらが理由を説明しようとしたら先生はそれをさえぎって、「じゃあ年会費はいらないです。返しますね!3200円。はいどうぞ!」とお金を突き返されました。人気の体操教室だから、キャンセル待ちで待っている人が沢山います。先生の言うことを聞かず、周囲の秩序を乱すような子供は、さっさと辞めてくれて大歓迎!という態度がムンムンでした。

 

先生に突き返された3200円を握りしめながら、私は息子に「ごめんね、今日は帰ろうね」と言い、泣きながら息子の手を引いて帰りました。

 

これまで、娘が習い事を辞めるときは、いつも先生がたに「すごく残念」「どうして辞めちゃうの?」「とっても楽しかった」「また遊びにきてね」と何度も何度も言われました。娘はお世話になった先生がたにギューっとハグしてもらい、「先生ありがとう」と何度も言っていました。良い先生方に巡り合ったなあ、娘は幸せだなあ、と私も幸せな気持ちでいっぱいになったものでした。

 

けれども、息子のときは、同じ姉弟でもまるで違いました。

 

「さっさ辞めてくれ。代わりはいくらでもいる。」という感じでした。「お世話になりました、ありがとうございました」も言わせてもらえない態度でした。ああ、こんなに違うんだ、こんなに違うものと向き合っていかないといけないんだ、私は初めて現実を突き付けられた感じでした。

 

「障害は個性」とか「違いを受け入れる」とか、言葉では簡単に言える。でも、それはそんな簡単なものではないのです。家で娘と息子を見ている限りは、「違いを受け入れる」ことはそれほど難しくはないのです。どちらも可愛い子供たちです。でも、彼らの違いが「社会」という場で露わになるとき、その「違い」はあまりに残酷に私に降りかかってきました。

 

何をしなくてもみんなに愛され、惜しまれる娘。

普通に生きているだけで、眉をひそめられる息子。

 

私にとっては、「違いを受け入れる」ということはそれほど簡単なことではありません。息子が人間社会と関わりを持つようになればなるほど、それは難しくなっていきます。私が受け入れなければならないのは、「違い」ではなく、「違いがあってもこの子を育てていかなければならない。」という現実だけ。絶望することも許されない。しかし、安易に希望にすがることもできない。

 

難しい子を育てるということ。それは、絶望も安易な希望も持てない、日々の一歩一歩を飽きずに積み重ねていくことなんだと、私は分かりました。今すぐ何かが変わることはないかもしれない、でも、何かが変わることを願いながら。一歩一歩。