モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

自分を大事にしてくれる人を見誤る原因

知り合いで、やたらめったら他人から雑用を頼まれる人がいます。実はその人、鬱で体調を崩して休職中であるにも関わらず、人の引っ越しの手伝いやら、パーティの配膳の手伝いやら、他人の子供のベビーシッターやら…。とにかく土日はほとんど休めないほど引っ張りだこ。そのときは気晴らしになるようですが、言わずもがな、後になって鬱の波がどーんと重く訪れる模様。そんな友人がふと口にしたのが、「これって自分の人徳だね。他の人にはみんなこんなこと絶対頼めない」「自分はみんなに必要とされてるんだなあ」という言葉。

 

おい!ちょっと待てw と思わず口を突いて出そうに。

 

 本当にあなたのこと大事に思っていたら、鬱病で休職中の人にそんなに雑用頼むかよ!と頭の中で叫びましたが、なるほど、彼女はとても自己肯定感が低い人で。ご両親が毒親だったという話はよく聞いていましたが、「自分を大事にしてくれる人」というのを見誤ってしまうのですね。

 

私も以前そうでした。

 

私の場合は、「他人からいじられる」「からかわれる」ということを、「自分って愛され系」と勘違いしていました。中学校、高校、大学と思春期の一番多感な時期に、私は他人にからかわれることに喜びを感じていました。愛されているなあ~、わたしって人気者なんだなぁ~と悦に浸っていたのです。ところが自分が大人になって、鬱病になって…。自分を大事にするということがどういうことなのかを突き詰めて考えることになったときに、「あれは愛されていたんじゃなかったんだ。単なるイジメだったんだ…。」と気づいたのでした。ショックでしたよ。人生の半分以上の期間の人間関係を全否定されたわけですから。

 

怖いことに、イジメられている本人(私)はイジメられていることに気づいていないんです。むしろ、それを喜んでいるわけです。それは、本当に自分を大事にしてくれる人間というものに家庭内で巡り会えず、さらに落ちるところまで落ちていた自己肯定感により、自分で自分を常にイジメていたからです。家族に大事にされず、自分で自分をイジメている人間は、イジメが自分の存在の柱になっています。だから、イジメられても「それが自分のあるべき姿」だと思い、感覚が麻痺していくのかもしれません。

 

大人になって、鬱病になりました。

 

自分で自分をイジメつづけ、周囲にイジメられても喜んでいたことによる慢性的なストレスは、知らず知らずのうちに全身を痛めつけていました。ここで初めて、私は「自分を大事にすること」「大事にされること」というのがなんなのか、考えることになりました。そして、からかわれたり笑い者にされたりしたら、「そういうのはイヤです」と言うべきだということも。

 

「自分を大事にする」というのがどういうことか、人は親から大事にされることによって自然に学んでいきます。それを家庭で学べなかったことで、自分を軽視し、利用する人間に知らず知らずにうちに惹かれていってしまうのかもしれません。

 

そういえば最近は自分をからかったり笑い者にしたりする人間とは、とんとご無沙汰だなあと思って空を見上げる、今日のランチタイム。