モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

私がネットに癒されるとき

依存症になるほどツイッターにはまって(そして一時中止して)分かったことなんだけれども、ネット上って「幸せ」な人が嫌われるみたいですね。苦労話はみんなが食いつく。みんな励ましてくれる。苦労話をすると、ファンが増える。あと、苦労に苦労を乗り越えて今はわりと幸せ、というネタも割と好かれる。確かにこれ、人に希望を与えますもの。ほんでも、「てけとーにやってるけど、人に恵まれて、仕事にも恵まれて、まぢ幸せ」的なノリは、ネットユーザーは大嫌いみたいです。これは多かれ少なかれ自分もそういう部分があって、例えば東尾理子さんのブログとか見ると「イラッ」としちゃうんですね。自分だけかと思ってたら、彼女は結構ネット上では嫌われてる。これ、自分なりに分析してみたんですよ。なんで理子ちゃんのブログを見るとイラッとするんだろうって。

 

なんていうかな、彼女、「自分はさしたる努力をせずとも、絶対幸せになる自信がある」のが分かるんですよね。「普通に生きてれば、ナチュラルに人に愛される」みたいな。現実にも沢山こういう人って存在して、現実だとそれほどイラッとしないものが、ネットだと不思議とイライラする。人は苦労している人をネットで見て、「自分もがんばろう」とどこかで癒されているのかもしれないなあと思ったりします。

 

以前、「自分はなんかもう今は幸せだわ」ということを書いたとき、「幸せ自慢するなウガー!!!」というコメントを沢山引き寄せてしまったことがあって、それを読んで「ああ、そろそろツイッターも休止どきかなあ」と思いました。休止どきと言っても、依存症になっていたので、休止は簡単ではなかったですが。

 

人の苦労話や不幸な話って、ときとして人の疲れた脳を癒す効果があるような気がします。私もネットで読み物をする際は、好んでそういう記事を読みます。間違っても、東尾理子さんのブログは読みません。

 

みんな、要領のいい人や、ナチュラルに幸せになってしまう自己肯定感の高い人たちを間近に見て、もやもやする気持ちを抱えながら頑張っているのかもしれない。私もリアルの世界ではそういう要領の良い人たちと自分を比べながら、「こんな自分だけど、それでもがんばっていかなきゃいけない」と思いながら生きているので。

 

そして要領のいい人や、ナチュラル幸せ系の人たちは、ネットで不幸な話を探したりもしないんですよね。まあ当然っちゃ当然だけど。そもそもその人たちは不幸とか苦労話とかいう言葉が、自分の辞書の中に書いてないんだと思います。

 

とはいえ、ネットで叩かれないように、ということを意識していると、知らず知らずのうちに自分があたかも苦労しているように文章を書いてしまう面があって。ツイッターを休みたくなったのはそれもありました。なんとなく、苦労しているように書こうとしているうちは、どんどん実生活もそちらに引きずられるような気がして。

 

いやー。難しいね。

我がなすことは我のみぞ知る

息子の発達障害傾向が分かってから、本当に奇跡的な出会いが沢山あり、今は発達障害のお子さんがいるお母さんたちとの交流に忙しくしています。ほとんどが娘の小学校のママさんたちです。フェイスブックでグループを作って情報交換をしたり、ちょっとしたランチ会を開いたり。聞いてみたら、パパやママ自身も発達障害の傾向があって、長いこと生きづらかったということが多く、どことなく似たもの同士の心地よさがあります。

 

今思えば、自分の人生はいつ終わるとも知れない「居場所探し」の時間でした。

 

私はかなり早い段階で自分がどこか周りとズレていることに気付き、なんとか「普通」の人たちの真似をして修正しようとし続けては挫折し、自己嫌悪の気持ちは募るばかり。やがて、自分が空気のように溶け込める場所がないかと探し続けるようになりました。

 

今思い出しても最大の挫折期は大学の頃。頭が良くて要領の良い男女が充実したキャンパスライフを謳歌するなかで、私は友達作りに躓きました。クラスがあった中学高校時代に比べ、どこから友達を作っていいのか皆目見当がつかない大学という場所。次第に登校途中のバスの中でパニックを起こすようになりました。日に日に気持ちが沈んでいく私に、ある同級生が投げかけた言葉。「変な自分をさらけ出して受け入れてくれるほど、大学の友達なんて甘くないよ」

 

「普通の人」のほうから見て「変な人」というのはこういう認識なんでしょう。努力でなんとかするべきだし、なんとかなるものだと思っているのでしょう。私はこの絶望的な感覚の違いに、もう周囲に心を開くことはやめようと決めました。

 

あのまま状況が変わらなければ、私は遅かれ早かれ大学を辞めていたでしょう。あるいは、大学に行くことが出来なくなっていたかもしれない。それが大きく変化したのは、知人に誘われて演劇サークルに連れていかれてからでした。

 

「ヒロインの女の子が足を怪我して公演に出られなくなった。良かったら、代打で出てみないか。」

 

演劇?なんじゃそりゃ?自分が舞台に?冷静になる間もなく演劇サークルの顔合わせに連れていかれ、私はそこで大学生活に溶け込めずにいるちょっと変わった面白い人たちと沢山出会うことになりました。

 

部長さんは、当時では珍しい、「成人でADHDの診断を受けている」という人でした。当時の私はADHDという単語の意味すら分かりません。でもとにかく、落ち着きのない部長さんだったのは覚えています(笑。空気は超絶に変な人でしたが、しかし彼の書く脚本は超一流でした。人としては難しい人でしたが、彼の脚本がなければ、あの演劇サークルは成り立ちませんでした。

 

私はそこで、夫と出会いました。

 

夫はあの演劇サークルの中ではかなりバランスの取れた人付き合いの上手な人でした。夫には「モビゾウさんは人の話を聞かない」「ちょっと落ち着いて人の話を聞け」と再三注意されていましたが、それでもうつむいて歩いてきた私が前を見て歩けるようになったのは、当時の夫が言った一言のおかげでした。

 

「あなたは、運命を引き寄せる強い力がある」

 

ADHDの部長さん、とんでもなく変わっているサークルメンバー、そして私の変なところを丸ごと受け入れて評価してくれた夫、このおかしな集団の中で、私の大学生活は大きく変わっていったのでした。ADHDの部長さんが書いた珠玉の脚本の中に、坂本龍馬の言葉の引用があって、それは今読んでも涙が出そうになります。

 

 「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」

 

「普通と違う」ことに苦しみ続けてきたからこそ、部長さんはこの言葉を脚本に引用したのでしょうし、「普通と違う」ことに苦しみ続けてきた私だったから、この言葉に強く打たれたのだと思います。

 

周囲にうまく溶け込むことのできない人生は、長く、辛かった。でも、だからこそ、探し続けてきた「居場所」が見つかったときの喜びと充実感は大きかったのです。

 

今、私は息子の発達障害のおかげで(?)、また新しい「居場所」を作りつつあります。

 

「居場所」を作りにくい人というのはいます。どこにでも馴染めるわけではない人はいます。そして「居場所」というのは自分という人間が何たるかを知らなければ、なかなかできません。何が居心地が良いのか、何が楽しいのか、「普通は何か」という考えから離れて自分を見つめなければそれは見えてきません。

 

「普通になりたい」という気持ちをあきらめて、自分が何に心地よいか何が楽しいかを見極めたとき、素敵な仲間や居場所が見つかるんだと思います。

依存症は結構身近なものかもしれない

気づかれた方もいるかと思いますが、少し前から意図的にツイッターの更新を止めています。結果、自分は結構な感じで、ツイッター依存症だったのかもしれない…と分かり、止めてみて初めて震えました(笑

 

先日、こちらの本(Amazon.co.jp: 忘れる技術―思い出したくない過去を乗り越える11の方法: 岡野 憲一郎: 本)で、「精神科医であるにも関わらず薬物依存に陥った人」という人についての章をたまたま読んだときに、私はとても動揺しました。依存というのは、「自分は絶対に大丈夫」と思っている人のほうが案外危ないという落とし穴。そして、それは実は遥か遠いどこかで起こっている話ではなく、とても身近で当たり前のように起こっている何かだったりする…。

 

最初に「ツイッターちょっとやめてみる?」と言ってくれたのは夫でした。夫は私が一日中、ツイッターの反応に一喜一憂していたのを知っていたからです。現実の人間関係も仕事も何も問題がない状態であるにも関わらず、ツイッターという世界での人間関係が私の一日の感情の全てを支配していました。

 

「僕がパスワードを変更しておく。使いたいときは僕に言って。僕の前でだけ使おう。」

 

正直私はとても動揺しました。今思えばなぜそんなに動揺したのか分からないけれども、当時の私は「ツイッターのない生活」というものが恐怖でした。

 

隠し立てなく言いますが、ツイッターを止めて最初の三日間はとてもしんどかったです。最初の一日目は完全に鬱状態。頭が全く働かないのです。頭にモヤがかかったような状態が続き、さらに恐ろしいことには、ボーっとしているとツイッターのタイムラインの画像が目の前にスルーっスルーっとスクロールして見える状態。車を運転していても、料理をしていても、仕事をしていても、ツイッターの画面がスルーっと出てくる。

 

さらには、思考が全て140文字で切り取られる現象が自分の頭の中に起きていたことに愕然としました。目の前で何か起きたり、何かを考えたりするたびに、140文字程度にまとめられた言葉が何度も何度も頭に浮かんできます。

 

最初の二日間は、何とも言えないザワザワとした気持ちの中で過ごしました。「今、夫に頼み込んでツイッターをやれば、気持ちが落ち着く。夜だけでもいじらせてもらおうか。」とか考えていました。今思うと、立派な依存症になっていたのだと思います。

 

ちなみに三日間を過ぎたあたりから、体も気持ちも相当楽になりました。ツイッターのない生活に、慣れました。最初の三日間で一度でもくじけて触れてしまったら、また依存に逆戻りしていたと思います。

 

今回は実験的にツイッター断ちをやってみましたが、生活の中で思いのほか身近なものに依存してしまっているケースって結構あるんじゃないかなあと思います。「やめてみる?」と言われて動揺してしまうケースは、ちょっと危険なラインかもしれませんね。

 

ツイッターを一時中止してから、思いのほか毎日が平和なので、しばらく距離を置いてみようと思います。ブログの更新のみ、ツイッターでお知らせする形をもうしばらく続けてみようかと思います。

 

LINEがなぜしんどかったか

昨晩、ツイッターでこんなブログが取り上げられていました。

 

LINE は確かに人を殺すかも|在宅生徒会長

 

これを読んで、「中高生のネットとの付き合い方」について思いを巡らせた方、あるいは「昔からこの手のハブリは手紙等を使って行われていたので、ツールが変わっただけ。ネットだから怖い、というわけではない」という意見の方、いろいろ目にすることができて面白かったです。

 

私個人の感想として、確かにこの手のハブリやイジメはツールは違えど昔から存在していた、けれども、やはりLINEというツールの特殊性について考えることなしに、「手紙と根本的には変わらない」と言い切ってしまうことはできないかなと。

 

実は、私も大人になってからLINEのコミュニケーションで窮地に追い込まれた経験があります。私もあまり状況を考えずに衝動的に行動/発言するところがあり(笑、私のちょっとした行動に対してグループの中の人物が怒りはじめたことがありました。

 

「ちょっともやっとしたから言わせてもらう」

「なぜこんなことをした?」

「あなたの軽率な行動のせいで、このグループへの安心感が消えた」

 

この言葉から始まって、ものすごい高速で、次から次に彼女の怒りが文字になって表示され始めました。

 

私は人に叱られるのが苦手なので、慌てふためいてしまい、手はガタガタ震え、心臓はドキドキし始めました。彼女の怒りをおさめたいという気持ちよりも、とにかく次から次に流れてくる刃のような言葉の羅列をなんとかして食い止めようと必死でした。

 

「分かった、本当にごめんなさい」

「私が悪かったから、もうやめて」

「怒るのやめて」

「ごめんなさい」

 

私の送る文字は、彼女の怒りの言葉の連続の間に、存在感なく表示されていくだけでした。

 

グループ内の他の人たちは、見て見ぬふり。唯一、怒っている彼女の子分のような女の子が、

 

「これは彼女の愛だよ」

「イヤなことをイヤと言ってもらえることに感謝しなよ」

 

と私をさらに追い込む言葉を言うのでした。

 

現実世界でもこの手のゴタモメと上下関係は存在するでしょう。根本的にはそれと同じなのかもしれません。ただ、一つだけ決定的に違うこと。それは、24時間、LINEのグループは繋がっているということ。そして、居心地の悪いグループから脱退が容易ではないこと。

 

私はこのもめ事が起こるだいぶ前から、LINEに辛さを感じ始めていました。朝の「おはよう」から始まり、夜の「おやすみ」まで、下手すると職場の昼休みにもメッセージは送り送られ続けました。朝起きると、すでに「未読10件」の表示。夜、少し疲れて早めに休むと、夜の会話も入れて、未読は100件以上にもなりました。

 

私はそもそも人との距離感をつかむのに時間がかかるタイプなので、固定化されたグループの中で一日の行動が縛られてしまうコミュニケーションに、苦痛を感じるようになりました。「少ししんどくなってきたので、抜けさせて欲しい」と私が訴えたところ、「そうやって大切なものをぶった切って今まで生きてきたの?」という言葉が返ってきました。今までの自分を変えなきゃ、仲良くなってはぶった切る性格は直していかなきゃ、何度も気を取り直しては、「ああ、辛い…」とうめいていました。そのさなか、私の軽率な行動が友達を切れさせたのでした。

 

そして私はLINEをやめました。

 

大人になって何が良かったって、もう無理をしなくて良くなったことでした。嫌いな人とは適当に距離を置いていい。どこかのグループで気まずくなったら、もっと居心地の良いグループに乗り換えればいい。そもそもグループづきあいが苦手なら、一人で生きていけばいい。

 

中学生高校生の頃の、「特定のグループから外されたら、もう自分の世界は終わる」という切迫感が大人の世界にはなく、私は大人になってやっと「好きな人とだけ、好きなように付き合っていける」 ことを満喫していました。

 

さらに、大人は人間づきあい以外にやることがいっぱいあるのです。仕事も忙しいし、家に帰ったら子供たちの世話にあけくれる。家事をやっと済ませて子供たちと寝床に入ると、吸い込まれるように眠りに落ちてしまう。この大人独特の忙しさのなかで、例え職場やママ友関係でイヤなことが多少あっても、場面が切り替わってバタバタしているうちに私は忘れてしまうのです。私はそれが本当に幸せでした。とにかく大人はイヤなことを考えている暇がない!これが中学生高校生のときだったら、学校のグループは自分の世界の全てでしたから、うまいこと逃避もできず、家にいても何をしていても考え込んでいたものです。

 

LINEは、私から「大人の世界の良さ」を全て奪うものでした。

 

「好きな人とだけ、好きなように、無理しないで付き合う」ことも。

「あれこれ忙しく過ごしているうちに、イヤなことから逃れられる」ことも。

 

だから、私はLINEをやめたのでした。

 

LINEは、手紙等による昔から存在したハブリツールと根本的には変わらないという意見も納得できるものではあります。が、やはり私は脱退の自由度の低いグループに24時間拘束されるしんどさは、LINEの特徴として無視できないのではないかと思ってしまうのでした。

 

 

 

結局のところ「距離感」ってなんだろう?

人と適切な距離感を取ることができるって、一体どういうことなんだろう、と昨晩ふと考えてしまいました。

 

このブログでも何度か「人との距離感をつかめて、人付き合いが楽になった」というようなことを綴ってきたわけですが、これ、とても抽象的で分かりにくい話ですよね。人との距離感って、人間づきあいの中で失敗したり立ち止まったりしながら少しずつ体得していくもので、「こうやったらできた」という簡単なものではないです。でも、一つだけ、「これができるようになってから、人と適切な距離感で付き合えるようになった」というものがあったのを思い出しました。

 

それは、人付き合いで「私」を主語にすることができるようになってからでした。

 

私は、実は割と最近まで、依存体質の人に好かれやすい性格でした。同じように機能不全家族に育っていて、ちょっとでも自分を分かってくれると感じた人と急激に距離を縮めようとする人が周りに沢山いました。依存されるのは苦しい、けれども依存するほうも苦しい。もしかしたら依存するほうが苦しいかもしれない。誰かに対して「この人に全てを分かって欲しい。全てを受け止めて欲しい」と思っても、それは決して叶えられるものではないからです。相手が自分の思い通りにならないと分かったとき、依存する側の気持ちは、突然憎悪に変わることがあります。依存被依存関係は、必ず両方がどうしようもなく傷ついて終わることが多いのです。

 

私も人と適切な距離が取れていなかった頃は、この関係を何度となく繰り返しました。大好きな人が突然憎くなる。あるいは自分を大好きと言ってくれていた人が突然自分を憎むようになる。

 

むかしの話ですが、私のことが大好きでたまらない、と言ってくれる友人から、手ひどい嫌がらせを受けたことがあります。本人は嫌がらせのつもりはなくて、「モビさんのことが大好き過ぎて、冷静になれなくなった」と言われました。そして、「私は母の愛情を受けられなかったから」「私は境界性人格障害だから」「私は鬱だから」というようなことを繰り返し言われましたが、私の気持ちは半年ぐらい立ち直れないぐらいボロボロになりました。そして、自分も全く同じような真似を他人にしたことが数限りなくありました。全て、関係は崩壊しました。

 

適切な距離感を身につけている人は、他人がここまで自分の中に侵入してくる前に、「私は、ここまで入ってこられるのはイヤだ」ときちんと自分で感じることができるのです。そして、自分からそっと距離を置くことができるのです。人との距離感が分からない人は、この「私は、イヤだ」という感覚を自分できちんと感じることができないのです。

 

あなたが大好きだったからやってしまった」と言われようと、「あなたのため思ってやってしまった」と言われようと、「私(=相手)が人格障害だからやってしまった」と言われようと、「私は、傷ついた」と自分を主語にして自分の気持ちを語ることができる人は、こういうことに巻き込まれたときに適切な身の処し方が分かるのです。

 

「そうなんだね、でも、私は傷ついた。私はイヤだった。」ときちんと返せる人は、自分とズブズブと依存関係にハマろうとする人間と、関わらずに済むのです。

 

「私」を主語にすることを知ってから、私は母と激しくぶつかることもなくなりました。

 

「お母さんはあなたが心配で」と言われたら、「そうなんだね、私は楽しいから大丈夫です。」と返せるようになったからです。

 

「お母さんはあなたのため思って」と言われたら、「そうなんだね、でも私はこうするから大丈夫です。」と返せるようになったからです。

 

機能不全家族で育ってくると、「あなたのため思って」というような主語のすり替えが家庭内で頻繁に起こってくるため、知らず知らずのうちに「私は」という主語を使うことがうまくできなくなってきます。「私は」という主語を使えないということは、自分の気持ちを感じられなくなっているということです。自分の気持ちが感じられなくなると、他人に侵入されてイヤだという気持ちも、他人に侵入してしまって心地悪いという感覚も、麻痺してくるのです。

 

「私」を主語にするということは、「私」の領域を確立するということ。

 

そして「私」の領域を確立して初めて、他者の領域も尊重できるようになるのではないでしょうか。

 

 

 

「無駄な時間」はないほうがいいに決まってる

 

今の土地に住み始めて、もうすぐ一年となります。

 

それまでは、親からあれやこれや干渉され、半ば強引に両親と同居させられ、娘の幼稚園を変えたくないという思いから、三年間は必死に同居生活を耐え忍び…。それでも、親との同居生活に伴う24時間休まることのないストレス状態のなかで、どうやったら親から離れられるか、どうやってここから脱出するか、水面下で少しずつ少しずつ夫と計画を立てていました。その間にも、何度となく「出ていってしまおうか」「死んでしまおうか」という衝動的な怒りに襲われ、子どもの見ていないところで家具を蹴り倒したり、壁を血が出るほど殴ったり、結構ギリギリいっぱいな生活をおくっていました。

 

親元は某高級住宅街にあり、どこに行くにも急な坂道がある土地でした。権力者は高いところが好き(あるいはバカは高いところが好き?)とはよく言ったもので、長い長い坂を上りきった、坂のてっぺんに親の家はありました。坂道を息をきらしながら上り、親の家が見えてくると、私はいつも坂道から転げ落ちたいような絶望的な気分に襲われたものです。そして坂の下から上のほうを眺めるとね、ゆがんでみえてくるんですよ、空間が。「ああ、あたし、おかしくなってるかも」とちょっと思っていました。

 

私の移住の前日、母親が(わざと?)階段から転落して歩行不能になったり、車の事故を起こしたり、とにかく偶然にしてはよく出来た展開がいろいろとありましたが、私は「ここで思いとどまったらもう二度と親からは離れられない」と思い、冷たく振り切って車を動かした記憶があります。

 

そして親元から90kmの距離に移住して約一年。昨日母親から電話がありました。

 

「お金、ないんでしょう?お金、困ってるんでしょう?」

「あなたがまたうつ病が再発してるんじゃないかと思って心配で」

「私がいなかったら、また病気になっちゃうわよ?」

 

子どもの寝かしつけ中だったので、正直何を言っているのかよく理解ができず、さっさと切りましたが、母が電話をくれるときはいつもこの手の話です。「お金なくて困ってるんでしょう?」「また病気が再発すると思うと心配」

 

ああ、この人は慈悲深い母を装っているけれども、私に幸せになってもらっては困るんだな、と私は感じました。私はいつも職にあぶれていて、お金に困っていて、うつ病で寝込んでいて、母がいないと生きていけないという人間でなければいけないんだなと。母はいつも、「あなたは本当に可哀想」というのが口癖でした。母は無意識のうちに、私に「あなたは可哀想な子でなければならない」という暗示をかけ、母の元から離れられないようにしていたのでしょう。

 

物心ついてからずっと、私は「自分は絶対に幸せにはなれない」と心のどこかで信じていました。「いい学校には入れるかもしれない。でも、幸せには絶対なれない。」と。そう思っていると、不思議ですね、幸せになりそうになると、自分でぶち壊すような真似をするようになります。そして、不幸になった自分に泣きながらも、戻るべき場所に戻ってきたような安心した気持ちになる。

 

母は、私が楽しかった話や、友達と仲良くしている話をすると、いつも聞いていませんでした。相槌も打たない、そしてどことなく機嫌が悪くなる。私が誰かととても仲良くなると、「でもお母さん、あの子はとても意地悪そうな顔をしていると思うの」などと言って、必ず友達を悪く言われる。ところが、私が友達と喧嘩したとか、友達に仲間外れにされたとか、友達と絶縁した、という話をすると、母は嬉々として相談にのってくれるのです。「あなたの良さが分からない子なんて、付き合わなくて宜しい!あなたの良さを、お母さんはよく分かってますよ。」と。そう言われると、ズタズタになっている自分のことを、母が全肯定してくれたような気がして、私は嬉しくてシクシク泣いたものです。

 

「私が幸せになるはずがない」と思っていた当初、私は自分の娘がたまらなく不憫に思えて辛かったことがありました。「この子は私の子だから、きっと誰ともうまくいかず、孤独な人生を送るんだ」「私の遺伝子を渡してしまってごめんなさい」「どうして私の子どもなんかに生まれてきたかなあ」「私しか娘を守ってあげられない」、私は娘が2歳3歳のときに、すでに娘の人生を決めてしまっていました。

 

娘が3歳の頃だったでしょうか。「ママ、私って毎日保育園に行って可哀想だから、お菓子買って」ー娘がそう言って、保育園帰りに菓子をねだるようになったのです。私はそのときハッとしたのでした。「私は自分の母親と同じことをしている…!!」と。

 

心配は、支配。

 

どうしてこれまでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう、と私はそのとき自分を殴りつけたいような衝動に駆られました。誰かを心配するということは、その人の生きる力を奪うこと、その人が「自分は幸福になっても良い」ということを認めないことだと。生きる力を奪い、相手を自分のもとにとどめておくようにすることだと。

 

母の元を脱出したのは、35歳の春でした。その後も、「親に嘘をついて逃げてきてしまった」という罪悪感で、しばらく体調を崩しがちの日々が続きました。今になってようやく、「逃げたモン勝ちだったんだ…」ということに気づいてホッとしているわけですが。「自分は幸せになってもいい」と思えるようになるまで、私は35年間もかかってしまいました。そこで得たものよりも、失ったもののほうがはるかに大きかったです。

 

「辛い思いがあってこその今」とか言われることもありますが、辛いことなんてなるべくないほうがいい。失うものは少ないほうがいい。35年間の失われた時期を過ごしてきた私は、「自分は幸せになれる」と信じて幼少期をおくった人たちとはもはや足並みを揃えることは難しく、「私は私なりに幸せになろう」と自分を納得させるしかありません。

 

他人になんと言われようと、35年間トンネルの中でもがき苦しんでいたことは、長い長い「無駄な時間」でした。これを「無駄な時間」と捉えることができて初めて、次世代への接し方のヒントが得られたように思います。

 

「心配」という暇があったら、「あなたはきっと幸せになる」という言葉を子どもたちに渡し続けること。そして「大人になるって幸せ」という姿を、子どもたちに見せ続けること。

 

自分が幸せになるという未来予測が自然にできる力って、すごいことなんです。人間は、自分が思い描いた通りの未来を作っていくものだから。

 

「うまくいきかけてはダメになって、人に憎まれて終わる」という未来予測をことごとく実現させてきた私ですが、ここに移住してきてようやく、「みんなに愛されて笑って生きていく」という未来予測ができるようになりました。

 

もうすぐ、ここにきて二度目の春です。

 

 

 

体操教室なんて行かせるつもりはなかった

息子、3歳6カ月、初めての習い事をスタートさせました。体操教室とトランポリン教室です。どれだけ運動能力向上に熱心な親だと思われることでしょうか。いえ、全然違います。正直、息子の特性が分かるまでは、私は体操やトランポリンなど、頭の隅にもかすりませんでした。当時のイタイ思考を暴露してしまえば、「まずは楽器よね。ピアノにしようかしら、バイオリンにしようかしら。男の子が楽器弾いている姿って素敵♪」「お勉強系は早めに伸ばしておいてほうがいいわよね、公文式か七田式かな」なんて考えていました。こうして書いていてもキモいですが、上の娘はこのキモい感じの流れで何の問題もなくきてしまいました。幼稚園も、最初は「バイオリン必修の幼稚園」とか「フラッシュカードで九九と漢字を覚えさせてしまう幼稚園」とか、「やはり子供は天才よ、ウフフ」な感じで探していました。

 

人生は往々にして予想とは大きく違う方向に動き出すものです。

 

前回の私のブログを読んだ方から、「発達障害児って結局のところどんな子供なんだ?」という質問ツイートがきていました。これ、実は簡単に答えられる問題ではありません。ある程度共通した特徴があるとはいえ、出方は子供によって全く違うものだからです。ただ大体の発達障害児の持っている特徴として大きなものは、「不器用さ」と「運動の苦手さ」にあるのではないかなと。

 

私が息子の発達障害を疑い始めたのは、癇癪や不可思議なコミュニケーションといったものよりもむしろ、歩いても数歩で転んだり、身体がぐにゃぐにゃしていて真っ直ぐ立ったり座ったりすることが難しいこと、ジャンプがいつまでたってもできないことなど、運動能力の遅れによるところが大きかったです。

 

私は実は、「小さい頃に運動なんか一生懸命させてもねえ」という結構偏った考え方を持っていました。「運動なんか生まれつきのもの」とずっと思っていたのですよね。あと、「やる気になったときに自分でやるものであって、親が押し付けるものでもない」とか。私の親も同じような考えだったので、私は体を動かすような遊びは小さい頃からほとんどせず、部屋に閉じこもって一人で物語を作っていたような記憶があります。

 

ところが、

 

息子が日常生活のなかで感じているであろう様々な困難に対する解決法を、そのときそのときウンウン頭回転させて調べていると、必ず同じ言葉に行きあたることが分かったのです。

 

感覚統合療法

「感覚統合」のお話【前編】~子どもの「困った!」ホントの理由

 

それは「感覚統合」という言葉です。これ、別に発達障害児に限った話ではありません。手や指や足や耳や目で感じた刺激を、脳で整理(統合)して、それを「感じる」ことを言います。そもそも子供はこの感覚統合の能力が発展途上にあるわけですが、発達障害児はこの感覚統合の発達が、ふつうの子供より遅れています。

 

息子は、「カサカサ」と音がなるジャンパーを着せようとすると癇癪を起していた時期がありました。私には理解できませんでしたが、恐らく彼はその「カサカサ」という感覚が、うまく交通整理されずに脳に届いてしまい、異様な感覚を想起させるものに感じられたのかもしれません。もしかすると、沢山のゴキブリや羽虫が上半身を這うような感覚だったのかもしれません。泥遊びも苦手でした。泥のぬめぬめべたべたとした感覚が指に伝わったとき、それを適切な形で脳に伝えられなかったのでしょう。スライムがまとわりつくような気持ち悪さがあったのかもしれません。二歳児の間は、つま先歩きもよくしていました。足の裏に伝わってくる地面の感覚が、それはそれは恐ろしかったんだと思います。きっと、感覚が統合されていない発達障害児の世界って、とても過酷なものなんだと思います。

 

我が家の感覚統合遊び: 3 TREE HOUSE

 

この方のブログが分かりやすいのですが、発達障害児にはとにかく揺れたり、回したり、あるいは小さなモノを指先でいじらせたり、という「感覚統合の遊び」を行うことがとても効果的です。前頭葉部分を鍛えなければ、いつも体がフラフラユラユラとしていて、それゆえに多動がおさまりません。我が家も家庭用トランポリンを購入し、大量のボタンを指でつまんで遊ばせたりして、少しずつ療育を行っています。結果、息子はこの一か月、多動がおさまり、ほとんど癇癪を起こしていません。同時に、言葉も増えました。

 

今だから言いますが、「子供の頃は泥まみれになって、大自然のなかで遊べ」とか、「体操で体のバランスを!」とか言うのを、私はずっとバカにしていたんですよね。「そんなものは生まれつきだ」と。

 

でもやはり、体の能力と心の成長や勉強って、繋がっているんですよ。そして小さい頃にしかできないことってあります。これは発達障害児に限ったことではないと思います。

 

A sound mind in a sound body

(健全な身体に健全な精神が宿る)

 

楽器を弾く素敵な男の子や幼稚園で九九を全部言えるような賢い男の子を夢見ていたこともありましたが、でんぐりがえしを一生懸命やりながら大笑いする息子のほうが、今は好きかもしれないな。