モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

The best is yet to be!

今朝はとりだめした「花子とアン」をまとめて視聴して、泣き過ぎて息が出来なくなった私です。ブログの更新、久しぶりです。一か月以上あいてしまいました。

 

今の仕事場にきて、一年と少しが過ぎました。以前の職場では英文和訳が中心でしたが、現在の職場は9割は和文英訳です。当然、英文和訳よりも和文英訳のほうが私にとっては敷居が高い感じで、正直、今の職場に入った当時は「自分では使い物にならないんじゃないか」という不安で、夜も眠れませんでした。手探りの状態で毎日毎日コツコツと仕事を積み重ねていくうちに、「なんだか少し仕事のクオリティに自信がついている?」という状態になってきた気がします。

 

自分にとって「仕事に自信を持てる」というのは実は大変な変化なのです。私は学生時代のバイトの時分から、「自分は仕事ができない」というコンプレックスに取りつかれ、家庭教師や塾講師といった一部の仕事を除いては、「自分なんていないほうがいい」「みんな自分を邪魔者だと思っている」と思いながら生きてきました。手先は不器用、電話を取りながらメモが取れない、異常におっちょこちょい、販売などでアルバイトをすると、同僚の女の子たちに「いい大学行ってても、仕事のできるできないとは別ですよね~」と嫌味を言われるのが辛かったこと。さらに、「コミュ障極まれり」みたいなタイプだったので、同年代のアルバイトさんたちの輪の中に入れません。みんながロッカールームでクスクス笑いながら着替えをする横で、逃げるように着替えて走って帰っていました。

 

私が大学院に進学したのは、研究をやりたかった以上に、社会に出る自信がどうしても出てこなかったからかもしれない。。それを認めるのは悔しいことですが、当時の私は会社に入った後の自分のことを想像するだけで、将来が真っ暗に見えました。

 

「自分は仕事ができない」と思って苦しんでいたあの20代前半の頃。今、あれからおよそ20年の時がたって。私はよくぼんやりと考えることがあるのです。

 

20代の頃の「仕事ができる」と、年を重ねてからの「仕事ができる」は違うのかもしれない…と。

 

20代の頃、アルバイターや新卒の初々しい頃というのは、とにかく「周りのことによく気が付く」「どんなことでもサクッとできる」「周囲の空気を読んで、協調性がある」といったことが「仕事ができる」ということになります。20代の頃、私はこういう「周りに気配りができる」人たちに、「いい大学出てるくせに仕事はできない」という言葉をあからさまに投げつけられてきました。

 

でも、いつからだろう。流れが変わり始めたのは。確かに、どこかでこの流れが変わり始めたのです。

 

友人で「私は、企画、広報、ブランディング、人事、経営と、何でも任せられてきた。14年社会人やってきた。どんな仕事を与えられてもできる自信がある。」と言って転職活動をしているけれど、なかなか思ったように進まないという人がいました。年齢を重ねていくと、「何でもできる」=「仕事ができる」ということではなくなるのかもしれません。それよりも、どんなスペシャリティがあるのか、どんなことをコツコツと積み重ねてきたのか、それを問われてくるのかもしれません。

 

さらに、年を重ねれば重ねるほど、「協調性があってよく気がつくということが応募のウリになる仕事」というのは、なぜか競争率が高くなっていきます。一般事務などは、ちょっとした短時間のパートでも競争率が5倍10倍に跳ね上がるのです。ところが積み重ねたスペシャリティがあると、この競争率がぐーんと下がる。そして年齢を重ねれば重ねるほど、自分自身の「経験値」が評価されるようになります。

 

 20代の頃の「仕事ができる」は、40代50代の「仕事ができる」とは違う、これが分かっていたら、あの頃の私はあんなに涙を流さずに済んだのかもしれない。「何でもできる」が評価されるのが20代だとすれば、「何かが特にできる」が評価されるのが40代50代なのかもしれない。

 

だから、バカにされても、ふてず、くさらず、日々「自分のやるべきこと」を積み重ねてきて良かった、と今になって思う。息子がいざ就業先で苦しむことがあっても、私は「20代の景色を全てだと思わないこと」と本人に言い続けていこうと思います。こんな風に仕事が楽しめる日がくるなんて、若い頃は思いもしなかったです。

 

そんなことを考えていたので、「花子とアン」とブラックバーン校長のスピーチは沁みました。泣き過ぎて、喉がおかしくなりました(笑

 

My girls!

Grow old along with me, the best is yet to be.

わたしの愛する生徒たちよ
我とともに老いよ 最上のものは なお後にきたる

If some decade later,
you look back on your time with us here
and you feel that these were  the happiest days of your life,
then i must say your education will have been a failure.

今から何十年後かに あなた方がこの学校生活を思い出して、
あの時代が一番幸せだった、楽しかったと 心の底から感じるのなら、
わたしはこの学校の教育が 失敗だったと言わなければなりません。

Life must improve as it takes its course.

Your youth you spend in preparation
because the best things are never in the past, but in the future.

人生は進歩です
若い時代は準備のときであり、
最上のものは過去にあるのではなく将来にあります

I hope that you pursue life,
and hold onto your hope and your dream
until the very end of the journey.

旅路の最後まで
希望と理想を持ち続け 進んでいくものでありますように

 

 

絶望でも希望でもない何か

四月、息子の入園と娘の進級が重なり、とにかく毎日のように学事関連の雑事が積み重なってくたばっています。特に息子の入園式までの数週間は、私も異常に緊張してしまい、悪いシナリオばかり考えては夜もよく眠れず。結局、幼稚園側の配慮で、娘が息子の隣に同席。娘の声かけに安心したのか、二時間の式典を静かに頑張ることができました。

 

息子は相変わらず体操教室で集団行動からの逸脱が激しく、今月いっぱいで退会することにしました。幼稚園では特に逸脱しているという話は聞かないので、恐らく体操教室は彼にとっては相当苦痛な場なのでしょう。息子は不安になったりストレスが極度にたまると、自閉的な症状が出ます。体操教室は、30分もすると、耳を塞いでキーっキーっと奇声を発し始め、「もう僕は帰るんだ」「もうやめる!」と騒ぎ始めます。周囲の目も痛く、私自身も毎回毎回奈落の底。涙を流さずに帰ることがない感じです。

 

「申し訳ないんですが、四月いっぱいで退会しようと…」と先生に言うと、理由も聞かれず、引き留められもせず。こちらが理由を説明しようとしたら先生はそれをさえぎって、「じゃあ年会費はいらないです。返しますね!3200円。はいどうぞ!」とお金を突き返されました。人気の体操教室だから、キャンセル待ちで待っている人が沢山います。先生の言うことを聞かず、周囲の秩序を乱すような子供は、さっさと辞めてくれて大歓迎!という態度がムンムンでした。

 

先生に突き返された3200円を握りしめながら、私は息子に「ごめんね、今日は帰ろうね」と言い、泣きながら息子の手を引いて帰りました。

 

これまで、娘が習い事を辞めるときは、いつも先生がたに「すごく残念」「どうして辞めちゃうの?」「とっても楽しかった」「また遊びにきてね」と何度も何度も言われました。娘はお世話になった先生がたにギューっとハグしてもらい、「先生ありがとう」と何度も言っていました。良い先生方に巡り合ったなあ、娘は幸せだなあ、と私も幸せな気持ちでいっぱいになったものでした。

 

けれども、息子のときは、同じ姉弟でもまるで違いました。

 

「さっさ辞めてくれ。代わりはいくらでもいる。」という感じでした。「お世話になりました、ありがとうございました」も言わせてもらえない態度でした。ああ、こんなに違うんだ、こんなに違うものと向き合っていかないといけないんだ、私は初めて現実を突き付けられた感じでした。

 

「障害は個性」とか「違いを受け入れる」とか、言葉では簡単に言える。でも、それはそんな簡単なものではないのです。家で娘と息子を見ている限りは、「違いを受け入れる」ことはそれほど難しくはないのです。どちらも可愛い子供たちです。でも、彼らの違いが「社会」という場で露わになるとき、その「違い」はあまりに残酷に私に降りかかってきました。

 

何をしなくてもみんなに愛され、惜しまれる娘。

普通に生きているだけで、眉をひそめられる息子。

 

私にとっては、「違いを受け入れる」ということはそれほど簡単なことではありません。息子が人間社会と関わりを持つようになればなるほど、それは難しくなっていきます。私が受け入れなければならないのは、「違い」ではなく、「違いがあってもこの子を育てていかなければならない。」という現実だけ。絶望することも許されない。しかし、安易に希望にすがることもできない。

 

難しい子を育てるということ。それは、絶望も安易な希望も持てない、日々の一歩一歩を飽きずに積み重ねていくことなんだと、私は分かりました。今すぐ何かが変わることはないかもしれない、でも、何かが変わることを願いながら。一歩一歩。

「息子は何の仕事に就けばいいですか?」

先日、発達障害の親の会で、お話することを頼まれました。息子のことというよりは私自身のこと。発達障害の傾向を強く持ちながら、何を思って生きてきたのか、どうやってここまで道を開拓してきたのか。うつ病になった経験や、雑談をパターン化していった話、今の仕事に行きついた話。お話をさせて頂いた会は、成人された発達障害のお子さんをお持ちの方がほとんどだったので、みなさん真剣に聞いてくださいました。

 

そしてお話が終わってから。個人的に何人かの方に呼び止められ、お話をしました。私はそこで呆気にとられる質問をされることになります。仮にAさんとしておきます。

 

Aさん:「あの、息子はなんの仕事に就いたらいいんでしょう?」

私:「え?」

Aさん:「うちの息子も翻訳とかやれるでしょうか?」

私:「…息子さんは英語がお好きなんですか?」

Aさん:「さぁ…。でも文系です。」

私:「それは私が考える話ではないと思うんですが…」

Aさん:「翻訳だったら発達障害でも出来ますか?」

私:「…」

 

なんだか、自分の伝えたかったこと何も伝わっていなかったような、ものすごい脱力感に襲われました。その後もその方に、20分以上にわたって拘束されました。職業の話から、さらには息子の人間関係の話にまで及び、「どうやったら息子に友達を作ってやれますか?」とも。

 

言いようのない疲れに襲われながら、私は「支援ってなんなんだろう」と考えてしまいました。成人した息子の適職や友達の作り方まで親が考えてやる、それは発達障害児をあるがままに受け止めたことの結果なのだろうかと。

 

ふと思い出してみました。

 

母との関係には葛藤が多かったけれども、今思えば一つだけ救われたこと。

 

母は私の成績や進学には異常な熱意を持っていましたが、友達が少ないとか、友達とトラブルが多いなどということには、こちらから言わない限りはほとんど関心を示しませんでした。私が話せば嬉しそうに相談に乗っていましたが。私はママ友の中でノイローゼになりかけたことも、その中で雑談をパターン化してコミュニケーション手段を確立したことも、全て自分ひとりの格闘の中でやっていました。

 

自分自身で「気づき」を得ることは、自立することの特典なのです。自分で行動して、自分で苦しんで、自分で問題に取り組む。それは、親から離れた人間の得られる、自由なのです。何の仕事に就くとか、その仕事に就くためにどのような苦難を克服していかなきゃいけないのかとか、そういうことを考えることも、自立した人間に与えられた自由だと思うのです。そういう自由を、発達障害児だからといって奪って良いものかと。

 

「気づき」を親から与えられる時間は、幼少時だけだと思っています。私は幼少時の教育は、高校生大学生になって自立に向かうときに、一人で考える力をつけるために、長期的な視点で行っていかなければならないと思っています。これは、発達障害児であろうと定型発達児であろうと同じ。自立したら、自分で世界を見つめていかなくちゃいけない。自分で「気づき」を得なければならない。

 

だから私は、幼少時である今は、息子にも娘にもある程度の介入をしています。「気づき」を得られる環境を提供しています。やがて手を離れていく思春期に、自分自身で歩ける力を得させるために。

 

二十歳を超えた息子が「どの仕事に就くべきか」なんて、ほんの一時間話をしただけの私に聞くなんて、まるで学校の先生に「次のテストに出るところ教えてください」と聞くのと同じレベルの話です。間違っちゃいけない。親が子のありのままを受け止める、支援するって、そういうことじゃないんですよ。

 

「気づき」を得る自由まで、親が奪っちゃいけない。

 

このお母さんに長いこと拘束されているときに、鬱屈して追いつめられている息子さんの顔が、ふと浮かびました。先には何も見えない。見えるのは、心配する親の顔だけ。未来はない。そんな息子さんの姿が浮かんできて、私はその後、寝込んでしまうほど疲れました。

勉強はなぜするの?と聞かれたら

子供を産み育てる前から、考え続けてきたことがありました。

 

それは、子供に「なぜ勉強しなければいけないのか」と聞かれたら、どう答えるのかということ。なぜそんなことを長いこと考えていたかと言われれば、私の母はそういった私の問いに対して「いい大学に行って、大きい会社に入るため。そうすれば、幸せになるから。」という答えしかくれませんでした。確かにそうやって幸せになっている人は沢山見た、でも、迷いあぐねている私にとってそれは十分な答えではありませんでした。結局私は母が望むような「大きい会社に入って幸せになる人生」から足を踏み外してしまったわけですが、それでも、やはり勉強はしておいて良かったと思うのです。それはなぜか。なぜなのか。ずっと考え続けてきました。

 

幸いなことに(それって幸いなのか?)、まだ娘にそのような疑問を投げかけられたことはありません。でも、いつか聞かれることになるかもしれない。

 

以前、「好きなものを見つけるために勉強する」という答えを聞いたことがあります。でも私、どうしてもこれにウンウンと素直に肯くことができないひねくれ者です。「子供には好きなものを見つけて欲しい」「好きなものを勉強して邁進して欲しい」ということをよく言う人がいるんですけど、好きなものを追求するって実はとっても苦しいことなんですよ。好きな研究やるために大学院に進んで、好きで好きでたまらなかったモノにどんどん追い詰められて、もう好きだか好きじゃないんだか分からなくなって病んでいってしまった人を私は沢山見ました。(私もそれ)好きで好きで、だれにも負けたくない、自分がそのパイオニアになりたい、と思うことに付随する苦しみ。これは多分、経験した人にしか分からないと思います。

 

そもそも発達障害は、特定の「好きなもの」に固執することが苦しみの原因となります。息子を見ていても分かります。大好きで大好きでたまらない。そしてそれが忘れられなくなる。行動がその好きなものに制限される。好きなものに固執するあまりに、思い通りにいかないと暴れる。暴れている自分にますます嫌気がさして、さらに暴れる。発達障害児の場合、自己コントロールができる年齢になるまでは、親はこの「好きなものに対する拘り」を削ぎ落とす努力をしなければなりません。

 

私の大学院時代を見ていて、そして発達障害児にふれて、夫は言いました。「好きなことに頭の中を覆い尽くされるのって、実は苦しいことなんだなあ」と。だから私は、「勉強しろ!勉強して好きなことを見つけろ!好きなことを持てる人生にしろ!」とか子供には言えないんです。怖くて。

 

では、なぜ勉強はしておいたほうがいいと私が思うのか?

 

それは八方ふさがりの苦しいことに出会ったときに、必ずそこに解があることを信じ続けることができるということでした。自分の苦しみを分析し、本を読み、人に話を聞き、時間をかけてその解を導き出していくことができるということ。さらに、自分の苦しみに対するアプローチを、文章にして発信する力が備わっていること、これはとても重要だと思うのです。

 

「毒母」に育てられ、自己肯定感の低さに長いこと苦しみ、それが原因で理不尽なことを言われたりやられたりすることが日常茶飯事の人生。くたびれ果ててうつ病になったとき、私を救ったのは「苦しみを分析し、答えを探し出す力」と「文章で発信する力」でした。これがあったから、私は死ななかった。「必ず答えはある」と信じ続けることができた。

 

さらに、勉強をして私が分かったこと。物事には短期的にパッと解が出てくる問題と、長期的に時間をかけてやっと答えが見えたような見えないような、変化が見えたような見えないようなという二つの種類の問題が存在するということ。ここを見誤ると、問題解決どころか、事態はさらに混迷するのです。

 

息子の発達障害のことなどは、まさに「長い時間」が必要なことです。今すぐに答えが欲しい人が、頭がい骨矯正や薬物の拒否・予防接種の拒否などの偽科学にはまっていくのをたまに見ます。発達障害はボタンを押せばすぐに答えが出る問題ではありません。長い長い発達の過程を、辛抱強く見守っていかなければならないのです。

 

自分の苦しみを分析し、解明し、それを発信する力がつくと、人は苦しみに飲まれなくなります。苦しみを、自分のモノにしてしまうことができるのです。日々の勉強は、そのインナーマッスルを必ず鍛えてくれます。

 

私は機能不全家族発達障害などの問題を通して、大人になってから本当に世界が広がりました。自分の苦しみに対する解を求めて探求することは、非常に充実した楽しい過程でした。苦しみは、探求して発信する力がつくと、「ネタ」になります。(ネタというか研究材料というか)そこまできたら、もう自分の人生は自分のものです。理不尽なものに振り回されることはなくなります。

 

好きなものを見つけるためではなく、苦しいときに生き抜く強さを身につけるために。勉強はしておこう。

 

子供たちに聞かれたら、そう答えようかなと思っています。

 

中庸を目指すってどういうことか

もうすぐ息子の幼稚園入園が迫っています。発達障害児はイレギュラーな行事が大の苦手です。入園式や遠足、運動会など、普通の子供の親が楽しみにしている行事に、一人パニックになる子供をなだめることがほとんどで、発達障害児の親は行事のたびに奈落の底に突き落とされたような気分になることが多いそうです。

 

息子の幼稚園の教育方針は「中庸」。これは「普通であれ」という意味ではなく、「人は人の間でしか生きていけないから、極端に偏ることなく生きていけるようにする」ということらしいです。幼い頃の私は、こういう言葉が大嫌いでした。「結局、偏ってる自分はダメってことか。普通でいろってことかよっ!」と考えて、拒否反応を起こしていました。でも今自分がここまで生きてきて、この「中庸」という言葉にはとても肯けるものがあります。この教育方針は、「偏っているからダメ」ということではないのです。大切なのは、「人は人の間でしか生きられない」-ここの部分なのだと最近気づいたのです。

 

この数か月、息子の発達障害が判明してから、私も様々なことに取り組んできました。前頭葉の未発達が多動の原因だと分かり、体操教室に通わせ始めました。トランポリン教室にも通わせ始めました。しかし、それは苦労の連続でした。息子の脳は聞こえてくる沢山の音の優先度づけが出来ません。体操教室で聞こえてくる音(隣のダンスクラスの音楽、先生の声、観客席の赤ちゃんの声)がワーッと頭に押し寄せてきてしまうため、肝心の目の前の先生の言葉が理解できなくなります。さらにADHDによる衝動性が強いため、順番を待つことができません。重力不安があるため、ジャンプしたり、跳び箱を飛んだりすることもできません。息子は知能に遅れがないため、家で私が相対しているときはそれほど「発達障害っぽさ」を感じることがないのですが、体操教室で「普通の子(発達障害ではない子)」と並べてみると、その違いに愕然とします。そして、私は毎回泣きたい思いです。

 

先日、遂に息子が「体操教室行きたくない」「楽しくない」「ぼくはできないんだ」と言うようになりました。発達障害の子供は、嫌いなことは絶対にやりません。娘はあれやこれや褒めそやしていれば調子にのってやる子でしたが、息子は「これはイヤだ」と言い出したら、何を言っても無駄です。実に、ごまかしの利かない子供です。

 

そこで私は気づいたのです。普通の子が運動能力向上を目的として行く体操教室と、いわゆる発達障害児の療育とでは、同じトランポリンや跳び箱をやっていたとしても、メソッドも目指すところも全く違ったのだと。

 

普通の子の体操教室では「流れに乗せる」ことが大事だと言われます。周りが流れにのってどんどんやっているから、それに一緒にのせてしまう。そうやっているうちにいろいろなことが出来るようになる。

 

けれども、そもそも発達障害児というのはなぜ生きづらいかと言えば、「流れに乗れない」からなんです。(「空気が読めない」というのもその一貫かも)「流れ」という漠然としたものでは分からないから、動きを分解して教えなければならないんです。縄跳びであれば、手を回すということと、飛ぶということを別々に練習させる、そしてそれを組み合わせるということを教えるのです。

 

私はその「普通の体操教室」と「療育の体操」のメソッドと目的の違いを、完全に同一視していました。そして、息子に早々「失敗体験」をさせてしまったのでした。

 

発達障害のお子さんの親御さんで、習い事に行かせることを「少しでも普通に近づけるため」とおっしゃる方がたまーにいます。辞めたい、辛い、と泣き叫ぶ子供に、「これはあなたが普通である証拠なのだから、お母さんはやめて欲しくないの」と言っているのを聞いたこともあります。

 

ここで「中庸」というのは一体なんだろう、とまた考えています。嫌がる子供に「普通である証拠」と言って、「普通の子供たち」の中で頑張らせることが「中庸」なのか?そこで数々の失敗体験を積ませ、それでも努力をすることが「中庸」なのか?私はこの言葉の意味はそういうものではないと思っています。

 

私は体操教室もトランポリン教室も、もうやめさせることにしました。その時間とお金は、療育に使っていくことにします。今興味があるのは、音楽療法や言語療法です。発達障害児を対象にした療育プログラムは、調べてみると沢山あります。

 

「普通の子」に近づけることが中庸ではなく、「自分なりの居場所を確保して、自分の良さを引き出せるグループに所属する力をつけたうえで、生活や人間関係に伴う困難をなくしていく」こと、それが「人の間で生きていくこと」だと私は思うのです。

 

「中庸」って、だれとでも仲良くできる力を持つことではないんです。自分の力を引き出してくれる仲間を見つけていく力だと思うんです。自分が「この人たちがいるから頑張れる」と思える場所を、作っていく力だと思うんです。それはつまり、自分を大切にするということだと思うんです。

 

私は、息子が「普通の子」であるという証明なんていらない。そんなことを証明するために子育てしているわけじゃない。たった二カ月の体操教室、息子にとっては本当につらい時間だったと思います。

 

息子くん、いつも奇声をあげて、脱走して、みんなに冷たい目で見られてしまったね。私以上に、君がしんどかったんだろうね。それでも三歳にして「もうやりたくない」と言える力があるのは、素晴らしいよ。これからは、君をもっと温かい目で見てくれる人たちを探そうね。世界には沢山の人がいるから、きっと大丈夫だから。

親の期待は早めに裏切っちゃったもん勝ちだわ!

いつも息子のネタが多いので、たまには娘のネタを。

 

なんでもかんでも手を煩わせてくれる息子と違って、娘はとにかく何でも器用にこなしてしまうタイプのため、ついつい期待値が高くなりがちです。息子はとにかく「発達障害の二次障害にならずに大人になって欲しい」という目標設定が私の中に明確にあるわけですが、娘は育てていくうえでの目標がうまいこと定まりません。娘の幼稚園にいたお受験させて将来は東大だ慶應だ早稲田だというママたちから逃れたくて、娘幼稚園期は本当につらかったのですが、かといってじゃあどう育てたいのかが自分の中で全然見えてこない。不思議なことに、実は息子の子育てより葛藤が大きかったりするのです。

 

ただ一つだけ。娘は、とても不思議な子でして。

 

私は例によって例のごとく「コミュ障」なんで、娘の幼稚園ママ友の中には私のことをどことなくバカにしてくる人がぼちぼちいたんですね。ママ友の世界では勉強ができたできないは全く関係ない世界ですから、なんとなく不器用さや不思議さが目立つ私を、「面白い人だよね~プッ」みたいな言い方をする人がたまーにいました。

 

それでですね、白状するのイヤなんですが、一度か二度ほどでしょうか。「自分がただの変人ではないことを、娘に結果を出させて思い知らせてやる…」というかなり曲がった考え方に流されてしまったことがありました。お受験とかではないのですが、「おまえら見てろ~うちの娘はちゃうぞ~」という風に必死になっていたことが二度ほどありました。(白状するとピアノのコンクール等)

 

ところが、うちの娘は、そういうときに限って結果を出さない。本番当日にインフルエンザとか、飽きたとか、最後の最後に面倒くさくなったとか、必ずそういうことになる。そして私自身も、「私がただの変人じゃないことを娘で証明してやる」という考え方が自分の母親と全く同じであることに気付いて、娘のお尻を叩くことができない。結局、二人で「あーもういいや」という気分になってきて、最終的に二人とも傷つくという結果。

 

二度ほどそういうことがあり、私は「なるほど、娘は私の期待には応えないタイプなんだな」ということが分かったのです。神様って、ちゃんと見てるなあと。そうしたら気持ちがスーッと楽になって、「娘にやらせるんじゃなくて、自分でやりゃええやん」と当たり前のことに気付いて衝撃を受けたのでした。

 

とはいえ娘に期待を激しく裏切られた当初、幼稚園ママに会うのが苦痛で苦痛でたまりませんでした。「ダメだったんだって~?」「でも頑張ったよ~」と会う人会う人に声をかけられ、そのたびに「ここから消えたい」と思ったものでした。

 

私は母の期待に小さい頃から死にもの狂いで応えてきました。それは生きるか死ぬかぐらい、切実なものでした。母の期待に沿えなければ、母にどういう仕打ちに合うか分からない、どんなにイヤなことを言われて、いつまで無視されるか分からない、私にとって失敗することは、母の愛情を失うことと同義でした。

 

私が母の期待に一つ一つ応えるたびに、母は私を愛していると言って抱きしめ、ご近所や親戚にそれはそれは幸せそうな顔でふれまわっていました。

 

「この子は努力して私の期待に応える」ということを母に学習させてしまったのでしょうか。母の期待はとどまることを知らず、一つ期待に応えると、次にもっと大きな期待をかけてきました。

 

初めて私が彼女の期待を裏切ったのは30歳のとき。大学院を鬱で中退し、その後派遣社員として働き始めたときでした。母は「派遣社員」という響きが大嫌いでした。今でも忘れません、母は私を「派遣ちゃん」と呼んで侮辱しました。さらに、家に人が来ているときは、恥ずかしいから絶対に顔を出すな、と言われました。

 

私はそのとき、初めて母の前で暴れました。母に殴りかかり、家じゅうのものを投げつけました。今まで期待に応え続けて、鬱になるまで応えつづけて、期待に応えなくなった途端にこの仕打ちかと。

 

今でもこのことは思い出すと怒りがおさまりません。けれども、母に「恥さらし」という扱いを受けたおかげで私は怖いものがなくなりました。もう、この人の期待は裏切った。この人の期待に沿うために努力をする必要はないんだ。私自身がやりたいことをやればいいんだ、と。移住を計画し始めたのはこの頃でした。やっと私は母から逃げることに決めたのでした。

 

娘は私の期待に応えようという気持ちの全くない子でした(笑。それどころか、私がよこしまなことを考えていると、絶対に結果を出さないのです。娘が若干4歳で、私は娘に期待をかけるぐらいなら、自分で自分のこと頑張ったほうが楽しいわ、という気持ちになったのでした。今は娘は娘で自分の好きなように好きなペースで生きていて、公文の教材が進んだとか、テストが100点だったとか、バック転側転ができたとか、小さなことを喜びながら生きてくれています。

 

親の期待は、早めに裏切っちゃったもん勝ちだなあと娘を見て思います。「親の期待に応える癖」をつけると、親も子もずーっと気持ちが自由にならないのです。そして、30にもなって挫折して、親の冷たい姿を見たときの怒りって、半端ないです。それこそ、「今までの人生なんだったんだ!!!私の人生返しやがれ!!!」という、とめどもない怒りと悲しみ。親の操り人形として生きる30年間は、あまりに長いです。

 

そして子供に期待を裏切られてはじめて、親も自由になるんだと思います。

私はあなたを受け止めることはできません

ここ数日、アスペルガーの娘さんが家で激しく暴れるというママの話を聞いていました。発達障害アスペルガーの子どもは小学校高学年から思春期にかけて荒れることが多いと聞きます。アスペルガーの子は自分自身、どこに怒りのツボがあるのかもわかりません。何が苦しいのかもうまく表現できません。とにかく苦しい。そして、怒りの感情の制御もうまくできません。一度暴れ始めると、暴れる自分がイヤでイヤでたまらず、また暴れます。

 

「なんとか受け止めてあげたい」「何が苦しいのか理解してあげたい」というのがご両親の大抵の反応です。しかし悲しいかな、受け止めてあげたい、理解してあげたい、と思えば思うほど、お子さんの暴力はひどくなっていくばかり。

 

私も例に漏れず小学校高学年から激しく荒れ始めたわけですが、私は母に対してその怒りや苦しみをぶつけることはできず、専ら学校でその攻撃性を表出していました。当然、小学校史上なかなかみない問題児に。しかも、私は先生や同級生の言う綺麗事や論理の破綻が許せないタイプでした。激しい攻撃は言葉の暴力となって教室内に響き渡りました。六年生の頃の担任には「なぜ大人に向かって、大人すらぎょっとするような口の利き方をするのか。子どもとはとても思えない。忌まわしい」とまで言われるありさまでした。

 

こうやって荒れていく子ども。何が苦しいのかも表現しないままに、相手に容赦ない攻撃をしてくる子ども。日々その脅威にさらされながら「どうやって受け止めてあげたらいいですか」と言われたとき、私ははっきりこう言いました。「『あなたが暴れたら、私は壊れます。あなたが暴れたら、すぐに私は逃げます。あなたが暴れても、私は受け止めることができません。』そう示し続けないと、ずっと暴力はやまないと思います」と。

 

私は自分の中の苦しさを結婚した後も消化することができず、毎日のように家で暴れていた時期がありました。夫は私が何を言ったら怒り出すか、予測することができなかったといいます。何かを契機に起こり始めると、どんな言葉をかけても落ち着かせることができない。怒って叫ぶ自分の声にイライラして、ますます怒りが増長する始末。夫は常になすすべもなく、それでも「どうしたらこの人の苦しさを和らげてあげられるのか」ということを考えて一生懸命だったそうです。そういう生活が二年続いて、ついに夫の心は壊れました。仕事が激務だったりということもあったでしょうが、夫は暴れて怒り狂う私との生活に疲れ果てていたんだと思います。うつ病の診断。夫は一年間の休職を余儀なくされ、私たちの貯金はあっという間に底をつきました。

 

夫が倒れて、自分の生活も窮地に陥って、私は「私のせいで彼が壊れた」という事態に愕然としたのでした。それまで、夫はずっと受け止めてくれると思っていたんだと思います。夫は自分が倒れたことで、私と距離を置くようになりました。私が感情を爆発させても、「僕はあなたの怒りの感情を受け止めることができません」と言って、出ていくようになりました。彼に距離を置かれてやっと、私は自分の怒りの感情を分析し、anger controlの方法を自分なりに学ぶようになりました。

 

私は専門家ではないので、荒れて暴力を振るう子どもについての対処法はよく分かりません。が、少なくとも発達障害の子どもが苦しさから荒れることに関しては、「なんとかして受け止めてあげよう」「なんとかして理解したい」と思って「寄り添う」努力をしても、攻撃性をおさえることはできないような気がしているのです。

 

うちの息子が一時期ひどい癇癪を起こしていた時期がありました。発達障害の子どもはよく癇癪を起こします。激しい拘りと、物事がその通りに進まないことに関しての怒りが自分でコントロールできないからです。私は、息子が癇癪を起こしても、一切態度を変えませんでした。彼の地雷を踏んでしまったら、なだめすかすなんて無理。かといって、自然におさまるのを待っていたら、一時間でも二時間でも怒り続ける。

 

手もあげない。大きな声も出さない。かといってなだめたりすかしたり抱きしめたりもしない。私は私のやることを淡々とやりながら、息子に大判のタオルを渡す。息子は怒り狂いながら、自分の顔をタオルにうずめ、しつこく自分を苦しめる思考が遮断されるのを待つのです。「私はあなたの激しい怒りの感情を受け止めるのは無理です」「私はあなたが暴れたら怪我をするので安全を確保します」「私は私の身の安全と精神的な安定が一番大事です」という徹底した立場表明を息子に見せることで、息子は少しずつ自分のanger controlのやり方を学んでいっている気がします。

 

「私の苦しみ」と「あなたの苦しみ」は違うのです。私はそれをいつも意識して生活しています。息子は発達障害の拘りゆえの苦しみがあって暴れるのかもしれない。でも、それは私の苦しみではありません。私は、息子が暴れて、大きな声を出していることが「私の苦しみ」です。「私の苦しみ」と「あなたの苦しみ」の混同が、親子間では容易に生じます。だから、「理解したい」「受け止めたい」という気持ちで子どもの暴力と向き合い、事態はますます悪化するのかもしれません。

 

人は、親子であろうとも、相手を真の意味で「理解する」ことはできません。それを分かったうえで相手に接することが、ひいては相手の存在を尊重することではないかと近頃思うのです。