モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

アイデンティティ、「私は何者か」

自分の子供の発達障害を疑って書籍等を調べていくうちに、「なんだ、これ自分もそうだったじゃないか」という発見に至った人が私以外にも結構いた。私の時代にはまだ発達障害自閉症スペクトラムという診断名自体が存在せず、意味の分からない生きづらさだけを抱えて懸命に生きてきた人たちが沢山いたということだろう。私も例に漏れず、「ああ、かつての自分の苦しさの原因はここにあったか」と「発見」した一人だ。

 

しかし私にとってその「発見」は、過去の自分の苦しさを説明するものではあったが、今の自分の生活にはそれほど重要なことではなかったように思う。ここでは説明しきれないほどの紆余曲折と失敗を繰り返し、私は日常生活がそれによって阻害されるようなことはほとんどなかったからだ。自分に合った仕事も出来ているし、周囲と人間関係でトラブることもほとんどなかった。それなりに気の置けない友達も方々にいるし、娘のママ友たちとも割と良い関係を築けている。

 

私は現在進行形で発達障害と折り合うために苦悩しているフォロワーさんに「あなたはお仲間だ」と言われ、距離感をどんどん縮められることに段々としんどさを感じるようになってきた。「あなたは発達障害者だ」という前提で全ての会話が進行し、私は話題がうまくかみ合わないことに苛立ちを感じた。

 

後のツイートで私は書いた。「他人のアイデンティティを他人が決めちゃいけない」と。

 

アイデンティティ、「私は何者か」ということは、自分を他人と区切る、自分だけが持てる定義である。他人がなんと言おうとも覆すことのできない、いわば自分の「居場所」である。

 

医者が「あなたは発達障害です」と告知する権限があるのは、その人が現に自分の何かに困って相談しに行っているからである。そこに医学的見地とデータから見解を述べるのは、何も悪いことではない。

 

私は自分が発達障害的傾向があったから翻訳という仕事を選んだわけではない。全くの偶然で今の仕事についているわけだが、その間に沢山のことを克服してきたし、人との関わりも失敗を繰り返しながら学んだ。

 

「私は何者か」ということを語るときに、何を選ぶか、何を重視するか、それは個人に与えられた自由である。「アイデンティティ」というのは、そのような他者が介入できない何かである。

 

そしてこれは、この先息子との関わりの中でも生じてくる問題である。息子のアイデンティティを決めるのは息子自身だ。息子が何らかの生きづらさを感じ始め、そこに答えを求めるようになったら、私は発達障害について何らかの形で伝えるかもしれない。けれども、「あなたは発達障害だ」と息子のアイデンティティを私が規定する恐ろしさ、罪深さ。子供にとって親が規定する自分というのは自己イメージの形成において大きな影響力を持つ。良くも悪くもだ。私は母に「あなたはお母さんの子供だから数学ができない」「お母さんの子供だから体育ができない」「あなたは人間関係が下手だ」などと言われたことで、私の人生から重要なことが沢山奪い取られた。

 

アイデンティティは他者の影響によって移り変わっていく流動的なものではあるけれど、他者が規定するものではない。その境界線を侵害する権利は、誰にもないのだ。自分が何者かであるか、それをしっかりと両手に握りしめて、私は生きていきたいのだ。