モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

私の「怒り」を分析してみた

昨日、「息子が発達障害児」ということをカミングアウトした折、初めて爆弾発言に遭遇した。

 

「やっぱり親がちゃんと手をかけないとそうなっちゃうんですね~。私も気を付けよう。」

 

テレビや漫画ではよく見るこの手の「無知発言」。現実世界でもいた!しかも結構な高学歴のワーキングママさんから、この発言が飛び出した!その場では爽やかな微笑みを返し、デスクに戻った私だったが、そのまま彼女の元に戻って、横っ面を引っ叩いてやりたい衝動にかられた。こういうときは、そうだ、夫だ!夫に電話して落ち着こう!ドカドカと仕事場を出て、夫にコールする。当然あちらは仕事中。出ない。夫に対応してもらえないと、また怒りが増幅する。また彼女のところに行って、その辺にあるファイルや書籍を手当たり次第に投げつけたくなってきた。手はブルブルと震え、口はワナワナワナワナ忙しく動いた(笑。

 

結局私は、トイレに閉じこもった。そして、ツイッターで「こいつに呪いをかけてやりたい!」と打ち込んだ。即座に帰ってきたフォロワーさんからの多数の反応は、リアルに私を窮地から救った。震えるような怒りはスーッとおさまり、「ああ、本人に怒りをぶつけなくて良かった」と何度も思った。ツイッター、偉大である。

 

後になって考えてみたのだ。なぜあんなにワナワナするほどの怒りに震えたのか。これまでだって、素っ頓狂な反応はいくらでもあった。「いや、そうじゃないからw」みたいな反応ばかりされた。でも、私は別に腹はたたなかった。

 

昨日の言葉は、それは息子の発達障害の原因を「母親である私」に求めるものであった。どうして「自分が原因だ」と言われることで、ここまで私が動揺したのか?

 

上の娘を産んで、育てて、幼稚園に入れた頃、気づいたことがある。多くの親にとって、答えの見えない育児というものに取り組むにあたって、「後ろめたいこと」ってすごく怖いのだ。「世間様」に後ろめたいこと、そして、子供がいずれ大きくなったときに自分が後ろめたくなりそうなこと、そういったものを避けるために、多くの親はものすごいお金と労力を使っているということ。「後ろめたい」ってつまり、「母親のおまえが悪いんだー!」と言われそうなこと。

 

一つの例に過ぎないけど、「人並みのことはさせてあげた」「叩かずに育てた」とかもそうで。「これさえやっておけば、世間にも子供にも責められることはない」ということを、すごい執念で追及している人ってすごく多いということ。

 

私の母親なんかは、まさにこの「後ろめたいことが一切ない育児」にこだわり続けてきた人で。大きくなってから私が親との関係に疲弊し、鬱になったとき、私は母親を責める言葉が一つも思い浮かばなかった。苦しさを表現しようにも、母は「何も悪いことをしていない」「人並み以上のことを私にしてくれた」人だったから。

 

でも。でもでも。

 

息子という人間の子育てでは、「世間様に後ろめたくない教育」が、やることなすこと裏目に出た気がする。いわゆる、世間で良しとされる教育法。「子供の目を見てしっかり話を聞きましょう」とか、「子供の言いたいことにちゃんと耳を傾けてあげましょう」とか、息子が発達障害と言われた後、これらのことが息子にとってどれだけ負担だったかが分かった。(ちなみにこういうことやめてみたら、癇癪がおさまったw)

 

私、思ったんです。息子という子を育てるうえで、私はもう「後ろめたくない育児」とはご縁がないなと。スタートラインから、後ろめたいことが沢山だから。だから、私は「後ろめたくない育児」をすることに費やす労力やお金を、別のことに使おうと。順番は待てないし、乱暴だし、場所をわきまえず大声を出すし、本当に「後ろめたい」ことが沢山ある子だけれど、だったら謝って謝り倒して頑張っていくしかないじゃない。最初から「後ろめたい」んだから、怖いものはないよね。

 

そして、世間様に後ろめたいことを沢山しでかしても、それでも私は君が好きだよ、そう言えることの幸せ。

 

私の母は世間的には立派な子育てをしてきた人だったけれど、私はいつも思っていた。「この人は学校の名前がなかったら、私のこと愛してくれるのかなあ?」と。親に対してこういう疑いを持つ哀しさ。何不自由なく育っても、心は決して満たされない。

 

 今回、ツイッターで多くのメンションを頂いて、発達障害児のお母さんたちが「それでも私はこの子が好きですよ」とお返事くださったのを見て、何か私は特別なものを感じた。

 

スタートラインが違うからこそ言える「好きだよ」かもしれない。

 

そう言えることがどんなに素晴らしいことか、どんなに幸せか。無理解な言葉、無知な言葉から気づかされたのだ。