モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

子供に介入すること、子供と向き合わないこと

発達障害って具体的にどんなところがおかしくて気が付くんですか?」という質問をたまに受ける。この質問は答えるのがとても難しい。なぜなら、どれも「子供ならそんなものじゃない?」「うちだってそうだよー」「そのうち落ち着くんじゃないのー?」と言われてしまうような、「一般的な子供の特性」であるからだ。多動しかり、拘りしかり、癇癪しかり。どう説明したって「子供なんてそんなもの」としか言われない。それでも発達障害を疑う親は、自分の子供に対して圧倒的な違和感を覚えている。それこそコントロールの仕方のヒントすら得られない、朝起きたら目の前が暗くなり、「寝顔が可愛い」と思うより前に「この子が起きるのが怖い」とすら思うようなものである。私にとって、息子は「違和感」よりも「恐怖感」を喚起させる存在だった。

 

どれも「子供なんてそんなもの」としか言いようのない特性なのだが、私が決定的に「この子は違う」と勘付いたのは、その異様な「拘り」であった。例えば娘を習い事に連れていって、その待ち時間に用事があって100円ショップに立ち寄ったとする。私はそこでついつい息子に救急車のおもちゃを買い与えてしまった。そこから、息子は「娘の習い事の待ち時間=100円ショップで救急車」というパターンを脳に組み込む。それこそ、同じ救急車が100台あってもその行動を止められない。「今日は100円ショップは行かないよ」と言うと何十分にも及ぶ癇癪を起こす。癇癪をおさめるために、自家用車に乗せてドライブをしたことがある。癇癪はおさまって機嫌が良くなった。しかし、次は「娘の習い事の待ち時間=車でドライブ」という新しいパターンを脳に組み込む。拘りは収束することがない。パターンを変えたり、パターンを増やしながら、拡大していく一方なのである。

 

息子が発達障害の診断をくだされるまで、私たち家族は外出すら満足にできない状態だった。外出をして何かをする、そうすると息子がそのパターンを脳に組み込む。そしてそれは激しい拘りとして私たちを苦しめるようになる。もはや何もしないことが一番安全だった。私たちは家に閉じこもって時間を過ごすか、何もない広場や山(刺激が少ないため)に息子を連れていって、ひたすら走らせた。私も夫も、そして娘も、心身ともに疲れていた。

 

結論から言うと、息子の拘り行動は現在は相当減退した。一瞬、拘りを見せても、すぐに彼は忘れるようになった。

 

私はずっと不思議に思っていたのだ。息子自身がパターン化した行動に飽き飽きしているように見えるのに、それでもなぜそのパターンから抜け出せないのか。息子はなんだかとても苦しんでいるように見えた。とにかく脳が指令するからパターンをこなす。拒否されると癇癪を起こす。彼自身もどうしたらいいのか分からず、とても辛そうに思えた。

 

さまざまな文献に当たってみて、私は知った。発達障害児の「拘り」は、「全面受容」をして「あるがままを受けとめられた」群の予後が最も悪いということ。拘りの連鎖のなかにはまりこんでいる子供に、親は積極的に「介入」しなければならない。「介入」していくなかで、子供は少しずつ拘り行動をコントロールしていくことができる。

 

ではこの「介入」はどうやるか。そのツボは「子供に向き合わないこと」である。子供の要求や興味を、どんどん逸らしていくのだ。「100円ショップで救急車が買いたい」と言ったら、「あっちの建物までスキップで追いかけっこしてみようか、よーいドン」などと声をかけてみる。子供が何をしたいか、何を欲しいか、それに触れちゃダメだ。無視するんじゃない、逸らすんだ!

 

子供に介入するとか、子供とちゃんと向き合わないとか、上の娘を育てていたときには私はそういう言葉は一番嫌いだった。一人の人間として、自分の子供を裏切っているような気すらした。今だって、この言葉だけ聞けば、イヤな気持ちになる人もいるだろう。

 

でも、「あるがままに受けとめる」とか「そのままのその子を認めてあげる」ということで、発達障害児は状態が悪化していくのだ。私はそういう言葉の美しさにとらわれ過ぎて、遂には暴走していく息子に追いつめられていくこととなった。

 

子供に介入すること

子供と向き合わないこと

 

発達障害児を持つ親御さんは、そうすることで親子の関係が著しく向上したという方が結構いるんじゃないだろうか?「抑制」するのでもなく「全面受容」するのでもなく、適度に介入して子供に向き合うことをやめて初めて、その子を受けとめる土壌ができるのだ。少なくとも発達障害児の子育てにおいては。

 

そしていずれ親が決して介入できない領域が子供の前に立ちふさがってくる。それは、人との出会い。人とのコミュニケーション。

 

生きづらさの中で、「ああでも、こんな素晴らしい出会いがあるのであれば、人生棄てたもんじゃないな」と子供が思えるような出会いが沢山あるように。私たち親はもうその領域に関しては、ただただ祈ることしかできない。

 

介入できるうちに介入しよう。

向き合わなくていいから、うまく逸らして楽にさせてあげよう。

 

そして最後は祈ろう。

この子に素敵な出会いを。大好きな人が沢山現れますようにと。