モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

コミュ障だった私が息子にできること

世に「コミュ障」という言葉があります。「発達障害=コミュ障」だという理解をしている方が結構いて、「夜中に突然電話をかけてくる」「やたらとべたべたしてくる」ことに対して「多分、あの人は発達障害」という決めつけをするツイートを見ました。正直、発達障害の息子を持つ私としては、胸がえぐられるような気分でした。

 

確かにうちの息子は、異様に人懐っこいのに、なんとなくうまく会話が成り立たないような不思議な空気を持っています。道にいる誰にでも抱きついたり、手をつないだりしてしまう、宅急便のおじさんにもべたべたする、でも、こちらの質問にはきちんと答えない。どこかで覚えた不思議な言葉をブツブツと言い返したり、質問の趣旨が分からなくてオウム返しをしたりします。

 

彼が発達障害だと分かってから、私は彼に対する対応の仕方を100%変更しました。普通の子供に対して期待できる理解力が、彼にはなかったからです。定型児である娘と同じように育てていたら、息子は癇癪を起こす頻度が増えていくばかり。それもそのはず、二人は同じ人間だけれども、脳の伝達のシステムが明らかに異なっていたのです。

 

それでも私には一つだけ確信していたことがありました。

 

物事は無数のパターンで構成されている。そのパターンを分析して、いくつも覚えこんでいけば、相当な範囲でうまくやっていくことができるはずだと。

 

手前味噌で申し訳ないのですが、以前このようなまとめを作成して頂いたことがあります。

 

モビゾウさんの基礎についての一連のツイート - Togetterまとめ

 

この娘のピアノに関する話は、「基礎が大切」ということを強調しているわけですが、この「基礎」ってのは実はイコール「パターン」なのです。娘のピアノの先生は、楽典の学習の他に、ピアノの曲の中で出てくるいくつものパターンを、順番に覚えさせます。それによって、難しい曲が出てきたときに、「あ、難しく見えるけど、曲って基礎パターンの組み合わせなんだ」ということに気付くわけです。おかげで娘は、普段は毒にも薬にもならなさそうな退屈なパターン学習をさせられていますが、発表会などでグッと難しい曲をサクッと弾けるようになってしまいました。

 

これは私の翻訳の仕事などでもそうです。まあある程度の英語力は当然必要とされる仕事ではあるのですが、ネイティブの書いた論文などにあるパターンを拾ってきて、いくつもそれを組み合わせていけば、かなり感覚が掴めてきます。同僚の翻訳者たちも、訳しながら常にネイティブの論文表現を「拝借」しています。翻訳というのは英文をクリエイトするというよりも、パターンを組み合わせていくのが楽しい仕事なのです。そして、クリエイティビティは、パターンから逸脱することではなく、パターンを組み合わせていくことから生まれるんじゃないかと私は思っています。

 

脱線しましたが、実は勉強や仕事だけでなく、人間関係も、この「パターンの組み合わせ」で相当程度なんとかなるのです。これに気付いたときは、私は本当に目の前の霧が晴れたような思いでした。人付き合いとかコミュニケーションって、生まれ持った素質からは逸脱できないと私は思い込んでいました。「性格だから、もう仕方ない」と。

 

私が息子の発達相談に赴いたとき、心理士さんに息子のコミュニケーションについて「質問と答えをセットで教えてあげてください。それでパターンを覚えこませてください。」と言われました。「○○くん、寒いね~。うん、そうだね、寒いね。」のように。こういう「自然な会話の仕方」を、定型のお子さんは多分、自然に覚えていけるんだと思います。でも、息子はこれをパターン化して最初から教える必要がありました。なんだか子供の自分で伸びる力を奪っていくような罪悪感もありましたが、Q&Aをセットで教えるようになってから、息子の語彙力は飛躍的にアップしました。以前はオープンクエスチョンにうまく答えることができませんでしたが、最近は幼稚園での出来事などを説明できるほどになりました。息子は、まずパターンを教えなければ、会話能力を自分でうまく伸ばすことはできなかったのです。

 

やたらと人に懐っこいところは、まだ三歳だから無理に制止はしていません。もう少し大きくなってきたら、「人と接するときは、ひじから指先までの距離を取りましょう」と教えるように心理士さんに言われました。何か指標がはっきりと見える形であったほうが、本人も理解しやすいんだそうです。

 

私も実は、息子にエラそうなことなど言えない「コミュ障」でした。人と話すとき、自分の話ばかり一方的に喋ってしまったり、場にそぐわない暗い話をしてしまったり、興奮しすぎてドン引きされたり、とにかく「いい人なんだけど、ちょっと疲れる」と周りに思われていました(多分)。自分の「コミュ障」で本格的に悩んだのが、上の娘の幼稚園ママ友づきあいでした。お母さんたちと、「ごくごく普通のコミュニケーション」が取れない。幼稚園ではいつも浮いていました。お母さん同士仲良くなって、家族ぐるみで付き合いを始める人たちが増える中で、私は幼稚園の遠足も、娘と二人きりで弁当を食べました。娘に、「どうしてママと私だけ二人で食べてるの…?」と聞かれたときは、さすがに切なくて涙が出ました。

 

私は幼稚園ママ友づきあいで半分ノイローゼになりかかりましたが、どうしてもそこで逃げ出すわけにはいきませんでした。気持ち悪い言い方ですが、やはり娘が悲しんでいたからでしょうね。自分だけの問題じゃなかったんですよ。

 

 それからというもの、幼稚園に参じるたびに、ママ友たちのコミュニケーションを観察し続けました。もはやこれはフィールドワーク、現地調査です(笑。大学院時代に鍛えた分析能力を生かして、私はママたちの言語解析に励みました。

 

…半年も観察に集中したでしょうか。読めてきたんです。何かが。

 

最初に会ったら、まず「天気の話」。

次に、相手の服装を適当に褒める。

相手の子供のネタを適当にふる。

相手の話を否定しない。

 

出だしでこれが実践できれば、一時間でも二時間でも喋れるのです。以前、「雑談力」とかいう言葉が流行りましたが、コミュニケーションはまさに、雑談を制するものが制するのです。

 

こんなこと、なんの新鮮味もない人もたくさんいると思います。ふつうは、自然に覚えていくことなんです。でも私には、これはとんでもない発見でした。

 

発達障害児は、「普通の人が普通に習得すること」がなかなか習得できず、いろいろと生きづらさが出てくるのだと思います。けれども私は、「人生の多くのことはパターンを分析すればうまくいく」と実感を伴って感じるのです。だから、息子に対して出来ることは、まだまだたくさんあると思っています。

 

決して、「発達障害=コミュ障」として切り捨てないで欲しいです。

パターンを自分で読み込む力が少し足りないだけ。

ほんの少しの手助けで、パターンは覚えることができるのです。