モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

「無駄な時間」はないほうがいいに決まってる

 

今の土地に住み始めて、もうすぐ一年となります。

 

それまでは、親からあれやこれや干渉され、半ば強引に両親と同居させられ、娘の幼稚園を変えたくないという思いから、三年間は必死に同居生活を耐え忍び…。それでも、親との同居生活に伴う24時間休まることのないストレス状態のなかで、どうやったら親から離れられるか、どうやってここから脱出するか、水面下で少しずつ少しずつ夫と計画を立てていました。その間にも、何度となく「出ていってしまおうか」「死んでしまおうか」という衝動的な怒りに襲われ、子どもの見ていないところで家具を蹴り倒したり、壁を血が出るほど殴ったり、結構ギリギリいっぱいな生活をおくっていました。

 

親元は某高級住宅街にあり、どこに行くにも急な坂道がある土地でした。権力者は高いところが好き(あるいはバカは高いところが好き?)とはよく言ったもので、長い長い坂を上りきった、坂のてっぺんに親の家はありました。坂道を息をきらしながら上り、親の家が見えてくると、私はいつも坂道から転げ落ちたいような絶望的な気分に襲われたものです。そして坂の下から上のほうを眺めるとね、ゆがんでみえてくるんですよ、空間が。「ああ、あたし、おかしくなってるかも」とちょっと思っていました。

 

私の移住の前日、母親が(わざと?)階段から転落して歩行不能になったり、車の事故を起こしたり、とにかく偶然にしてはよく出来た展開がいろいろとありましたが、私は「ここで思いとどまったらもう二度と親からは離れられない」と思い、冷たく振り切って車を動かした記憶があります。

 

そして親元から90kmの距離に移住して約一年。昨日母親から電話がありました。

 

「お金、ないんでしょう?お金、困ってるんでしょう?」

「あなたがまたうつ病が再発してるんじゃないかと思って心配で」

「私がいなかったら、また病気になっちゃうわよ?」

 

子どもの寝かしつけ中だったので、正直何を言っているのかよく理解ができず、さっさと切りましたが、母が電話をくれるときはいつもこの手の話です。「お金なくて困ってるんでしょう?」「また病気が再発すると思うと心配」

 

ああ、この人は慈悲深い母を装っているけれども、私に幸せになってもらっては困るんだな、と私は感じました。私はいつも職にあぶれていて、お金に困っていて、うつ病で寝込んでいて、母がいないと生きていけないという人間でなければいけないんだなと。母はいつも、「あなたは本当に可哀想」というのが口癖でした。母は無意識のうちに、私に「あなたは可哀想な子でなければならない」という暗示をかけ、母の元から離れられないようにしていたのでしょう。

 

物心ついてからずっと、私は「自分は絶対に幸せにはなれない」と心のどこかで信じていました。「いい学校には入れるかもしれない。でも、幸せには絶対なれない。」と。そう思っていると、不思議ですね、幸せになりそうになると、自分でぶち壊すような真似をするようになります。そして、不幸になった自分に泣きながらも、戻るべき場所に戻ってきたような安心した気持ちになる。

 

母は、私が楽しかった話や、友達と仲良くしている話をすると、いつも聞いていませんでした。相槌も打たない、そしてどことなく機嫌が悪くなる。私が誰かととても仲良くなると、「でもお母さん、あの子はとても意地悪そうな顔をしていると思うの」などと言って、必ず友達を悪く言われる。ところが、私が友達と喧嘩したとか、友達に仲間外れにされたとか、友達と絶縁した、という話をすると、母は嬉々として相談にのってくれるのです。「あなたの良さが分からない子なんて、付き合わなくて宜しい!あなたの良さを、お母さんはよく分かってますよ。」と。そう言われると、ズタズタになっている自分のことを、母が全肯定してくれたような気がして、私は嬉しくてシクシク泣いたものです。

 

「私が幸せになるはずがない」と思っていた当初、私は自分の娘がたまらなく不憫に思えて辛かったことがありました。「この子は私の子だから、きっと誰ともうまくいかず、孤独な人生を送るんだ」「私の遺伝子を渡してしまってごめんなさい」「どうして私の子どもなんかに生まれてきたかなあ」「私しか娘を守ってあげられない」、私は娘が2歳3歳のときに、すでに娘の人生を決めてしまっていました。

 

娘が3歳の頃だったでしょうか。「ママ、私って毎日保育園に行って可哀想だから、お菓子買って」ー娘がそう言って、保育園帰りに菓子をねだるようになったのです。私はそのときハッとしたのでした。「私は自分の母親と同じことをしている…!!」と。

 

心配は、支配。

 

どうしてこれまでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう、と私はそのとき自分を殴りつけたいような衝動に駆られました。誰かを心配するということは、その人の生きる力を奪うこと、その人が「自分は幸福になっても良い」ということを認めないことだと。生きる力を奪い、相手を自分のもとにとどめておくようにすることだと。

 

母の元を脱出したのは、35歳の春でした。その後も、「親に嘘をついて逃げてきてしまった」という罪悪感で、しばらく体調を崩しがちの日々が続きました。今になってようやく、「逃げたモン勝ちだったんだ…」ということに気づいてホッとしているわけですが。「自分は幸せになってもいい」と思えるようになるまで、私は35年間もかかってしまいました。そこで得たものよりも、失ったもののほうがはるかに大きかったです。

 

「辛い思いがあってこその今」とか言われることもありますが、辛いことなんてなるべくないほうがいい。失うものは少ないほうがいい。35年間の失われた時期を過ごしてきた私は、「自分は幸せになれる」と信じて幼少期をおくった人たちとはもはや足並みを揃えることは難しく、「私は私なりに幸せになろう」と自分を納得させるしかありません。

 

他人になんと言われようと、35年間トンネルの中でもがき苦しんでいたことは、長い長い「無駄な時間」でした。これを「無駄な時間」と捉えることができて初めて、次世代への接し方のヒントが得られたように思います。

 

「心配」という暇があったら、「あなたはきっと幸せになる」という言葉を子どもたちに渡し続けること。そして「大人になるって幸せ」という姿を、子どもたちに見せ続けること。

 

自分が幸せになるという未来予測が自然にできる力って、すごいことなんです。人間は、自分が思い描いた通りの未来を作っていくものだから。

 

「うまくいきかけてはダメになって、人に憎まれて終わる」という未来予測をことごとく実現させてきた私ですが、ここに移住してきてようやく、「みんなに愛されて笑って生きていく」という未来予測ができるようになりました。

 

もうすぐ、ここにきて二度目の春です。