モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

独りになっても、生き延びる力

ブログを二か月も放置していました!こんにちは、お久しぶりです。

 

ここ二か月、息子の成長が目を見張るようで、とにかく毎日毎日彼の成長を見て、ノートに記録し、いろいろと勉強したり、発表したりということにほとんど全ての時間を費やしていました。とても、充実した時間でした。

 

娘(8歳)はすっかり手がかからなくなりました。あと二年もすれば、私も少しずつ、親離れ子離れの準備にかからなければならないかなあ…と漠然と感じるようになりました。

 

「手がかからなくなった」という表現は曖昧で分かりにくいのですが、育児というのは子どもがある地点まで成長したときに、ふっと「あ、もう大丈夫」と肩の力が抜ける瞬間があります。それは、勉強が一人でできるようになるとか、親より友達のほうが大事になるとか、そういう表面的なものとはちょっと違う気がします。

 

私が娘の育児でふっと肩の力が抜けて、少し距離を置いて子どもを眺めることができるようになったのは、実はこう思ったときでした。

 

「この子は不慮の事態で一人になってしまっても、もう死なない。なんとか生き残れる。」

 

例えば私が出先で病気になって倒れて、帰宅できなくなったとしても。変な話、私が突然命を落とすようなことがあっても。娘は、携帯電話で父親やじじばばに電話をかけて異常を知らせることができるだろう…、隣のご一家とも随分仲良くやっているようだから、まず隣のご一家に助けを求めるはずだ…、向かいの地主さんの家にもよく遊びに行ってるようだから、そこにも助けを求められる…、というように、何かあったときに彼女が助けを求めることのできるネットワークが、私の頭に浮かぶようになってきてから、私の気持ちはとても安らかになったのです。育児の第一段階が、終わったような、そんな誇らしい気持ちになったのでした。

 

親はいつか、子どもとは手を放します。子どもも、次第に親の手を離れていきます。それまでに親がやることは、子どもを全力で守ること以上に、子どもが自分の命を確保するために必要な社会的ネットワークを築くことなんじゃないかと思うのです。子どもが不慮の事態で一人になったときに、親以外に「助けてください」と言える誰かが頭に浮かぶようになること、それが親離れ子離れに先んじて、やるべきことなのかもしれません。

 

息子が発達障害の診断がくだってから、私は「親が全力でこの子の人生を守っていかなければ…」という重い気持ちに押しつぶされかけていたことがあります。発達障害の子はどうしてもイジメに遭いやすい、勉強も遅れることが多い、運動も苦手な子が多くコンプレックスを持ちやすい、、どうにかして、この子を世間の荒波から守ってやらなければ…、私はそう思っていました。

 

でも、そうじゃないのかもしれない…と最近思うようになりました。

 

「困っています。助けてください。」と言えるネットワークを増やす手助けをしていくことの大切さ、これは発達障害の子でも定型発達の子でも、関係ないと思うのです。

 

息子はまだ、私が放置してしまったら、いとも簡単に命を落とすと思います。つまり、「手が離れていない」状態です。でもこれから幼稚園が終わり、小学校に入り…という時間の流れのなかで、万が一独りぼっちになって困っても、「助けてください」と言える社会的ネットワークを築く努力をさせること、これが、「守り続ける」ことよりもずっと大切なことなのだと、分かりました。

 

全部自分で抱えこんで病んでしまう子もたくさんいます。私のように、親以外に「助けて」と言ってはいけないという風に教育されて、大人になっても苦しみ続けてきた人間もいます。

 

「あなたの周りには、あなたを助けてくれる人が沢山いる」

 

これを教えていくことが、「守り続ける」ことよりも大切なことなのではないでしょうか。じょじょに手を離れていく娘と相対しながら、感慨深い気持ちでそんなことを考えています。