モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

「人間」にする技術

先日の以下のつぶやきに反響があったので、少し追記しようと思います。

 

@movizoo

そのうちブログで書きたいと思うが、息子の療育で最も早く効果が出たのは応用行動分析だ。てっとり早く言ってしまうと、子供の心がどうの~とかいう部分をぶった切って、行動にのみ着目する。好ましい行動を増やし、好ましくない行動を消去する。→

→応用行動分析(ABA)は心の部分をぶった切るため、「動物の訓練のようだ」と嫌がる人がいる。確かに動物の訓練に近い。子供の心を受け止めてあげましょう~とかいうおべんちゃらが、全くない。私にとっては、行動にのみ注目するやり方は分かりやすくてやりやすかったが。→

→動物の訓練のように「行動」にのみ注目して消去と強化を繰り返したところ、息子はすっかり「人間ぽく」なった。「人間らしい作法」を身につけるためには、まずは「動物」としての訓練が必要なのかもしれない。

いろいろな困難にぶつかったときにね、「心」って邪魔になるときがあるの。相手がどう思ってるとか、罪悪感がどうのとか、そういうのぶった切って「今何をするべきか」と頭で考えると、すごくクリアに答えが出ることがある。応用行動分析は多分、それに近いのだ。

 

「心」をぶった切って、行動のみに注目する。そして、好ましい行動を増やし、好ましくない行動を減らしていく。そのうちに、手に負えなかった発達障害児が少しずつ「人間」になっていく、これが応用行動分析の凄さです。賛否両論あります。発達障害児の所作をより人間に近づける技術に過ぎないので、その後の関わりでは「心」を無視することは難しくなってきます。友達関係がうまくいかない、みんなができるはずのことができない、集団生活の中で少しずつ「自分はみんなと何かが違う」と揺れ動き始める発達障害児を前に、「心をぶったぎって、行動だけに着目しよう、うぇーい!」という対応は無理。そういう意味では、一時的なツールに過ぎないのです。けれども、この子たちの「心」にフォーカスするためには、まず「人間」らしくなってもらわないとこちらも辛い。そのために、最初だけ「心」をぶった切るのです。

 

応用行動分析を知って分かったのは、人を「人間」らしくすること、「人間」らしく育てることは、ある程度は技術で出来るということ。子供の心に寄り添って~とか、心優しく接して~とか、そんな抽象的な言葉に右往左往していた私にとって、これはとても自分を楽にする哲学でした。

 

そして応用行動分析を勉強し始め、息子が劇的な変化を見せ始めた頃、NHKクローズアップ現代でたまたまこんな番組を見ました。

 

見つめて 触れて 語りかけて  ~認知症ケア“ユマニチュード”~

 

これを見たときに、「これは息子の療育に通ずるものがある」と胸がときめいたのです。

 

ユマニチュードとは認知症のケアの手法であり、その哲学は「あなたは人間」「そこに存在している」と認知症の高齢者に伝えることにあります。「見る」「話しかける」「触れる」「立つ」がケアの主軸になっており、このケアによって認知症の徘徊や攻撃的な言動などが著しく減少するというもの。

 

これを見て、人を「人間」にする技術というのはあるのだ…!と思ったと同時に、「人に寄り添う人になる」「優しい人になる」ということが難しくても、「優しい人になる技術」というものがあるのだ…と気持ちが楽になったのを覚えています。

 

優しくなるって難しい。人に寄り添うって難しい。子育てにも介護にもそれが必要だと頭で分かっていても、私はどうやったら自分が優しい人間になれるのか分かりませんでした。

 

応用行動分析を知って、ユマニチュードを知って、優しい人間には簡単にはなれないけれど、相手を人間として扱う技術は学べるんだ…と気づけたわけです。

 

それから、子育てをするのも、人と接するのも、妙な罪悪感がなくなった気がします。技術は、学べるから。技術は、頭で考えて分かるから。

 

人に優しいことも、人に寄り添うことも、幸せな家庭で幸せに育ってきた人にだけ与えられた特権だと思っていました。でも、私でも学べる。

 

そう、こんな私でも、優しくなれる。