モビゾウ研究室

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「聞く」という行為の深さを知る ~言語療法第一回~

本日、初めて言語療法に息子を連れていってきました。昨年の段階では言語療法は予約いっぱい。さらに、息子自身の多動衝動性が目立ったため、ドクターの判断で言語療法はしばらく見送られていました。今年になって投薬の治療も開始し、本人の成長もあいまって、多少の落ち着きと聞き分けが出てきました。そこで、言語療法を開始することになりました。

 

さて、私はこの「言語療法」なるものが、息子に対してどのようなアプローチをするのか、一体どのような点を改善することを期待しているものなのか、非常に興味がありました。というのも、息子は喋り言葉だけ聞くと、全く言語に遅れがあるようには聞こえません。むしろ、年齢不相応な難しい言葉を知っていたりします。とはいっても、興味のないことは助詞の使い方すらもあやふやになる凸凹さ加減があります。言語療法で、いわゆるボキャブラリーの部分を強化するのかな?絵カードを見せながら、これは何とか何色とか教えるのかな?だとすれば、必要ないんだけど…と思いながら連れていきました。

 

予想に反して、言語療法では積み木や折り紙やペグ差しをさせられていました。言葉に関係あることと言えば、カードを見て物語を作るゲームぐらいだったでしょうか。はて、これがどう「言語」なのか、と私は首をひねったわけです。で、じーっと訓練の様子を見ていて分かったこと。言語療法とは、言語を話せるようになる訓練というよりは、「人の話を聞く」訓練であるということが分かってきたのです。

 

息子はこの「人の話を聞く」ということが徹底的に出来ない人でした。2歳児の発達検査の折、臨床心理士の指示が聞けない。指示を聞くことができないから、自分流に全部やってしまう。そうすると、全く求められたことができないわけです。理解力がないわけでも、ボキャブラリーが少ないわけでもないのです。むしろ理解力や頭の回転の速さは、親の私から見ても卓越しているように思えます。けれども、「聞けない」のです。

 

積み木、折り紙、ペグ差し、どれも単純なゲームに見えるのですが、言語聴覚士は都度、パターンを変えた指示を出します。突然質問をしてきます。それに一つ一つ答えて初めて、問題に取り組むことができるようにプログラムされています。

 

なるほど、コミュニケーションとは、「話す」こと以上に「聞く」ことが大切なのかもしれない、と訓練を横から拝見しながら思ったわけです。

 

息子の訓練を眺めながら、昔、自分が大学でゲスト講師として何度か教壇に立った日のことを思い出していました。ゲストとして何度か講義をさせてもらった大学は、キャンパス内にいち早くwi-fiだかなんだかを接続できるようにして、授業中も学生はラップトップパソコンを開きながら講義を聞くような先端的なところでした。ノートも紙のノートにつけるなんて古典的なことはせず、パソコンに入力しているのです。今の大学はみんなそんな感じなのかな。私にはよく分かりませんが、授業開始10分ぐらいで、私は授業をやる気ががっくりとなくなってきてしまったのです。

 

学生の、視線がこちらにこない。

 

PCの中を見ながら講義を聞かれると、学生の表情も視線も全く読めないのです。「聞いてるのかな」「面白いと思ってくれてるのかな」「これ準備するのに二週間かけたんだけど」「PC画面でネットサーフィンしてるんじゃないの」などとあれやこれや考えているうちに、講義をしているのが辛くなってきました。あのときは、帰宅してから無力感で泣いた覚えがあります。

 

そして、その後の講義では「私の授業ではラップトップパソコンの使用を禁じます」という強硬手段を取りました。学生はポカンとしていましたが、その後の授業では生徒の表情と視線から、はっきりと「あなたの話を聞いています」「とても面白いので熱心に聞いています」という何かこう、オーラのようなものを感じることができたのです。そして私は、「一生懸命聞いてくれている。もっと楽しませてみたい。」という気持ちになり、1時間20分の授業はなんともいえない教室との一体感を感じたのでした。

 

あのときに自分が感じたのは、「あなたの話を聞いている」という意思表示というのは、「自分の存在をちゃんと尊重してくれている」という気持ちを相手に起こさせるものなんだなと。「聞く」という行為は単なるコミュニケーションを円滑にする一手段ではなく、相手の存在そのものを受け入れ、尊重していることを示す、もっと根源的な表現なのではないでしょうか。

 

息子が今受けているのは音楽療法と言語療法の二つですが、どちらも常に主眼は「ボキャブラリーを増やす」ことではなく「相手の話を聞く力をつける」ことにあったのです。

 

どこかの塾の先生がこんなことを言っていました。「小学校入学前に漢字が書けるとか掛け算ができるとかそんなのは何も意味がない。いずれすぐに周りに追いつかれます。大切なのは、先生が前に立ったら話を聞く、そのルールが頭に入って出来ていること」

 

「人の話を聞く」ということの深さ、私がそれを知ったのは、30代中盤になって数々の人間関係の失敗を重ねた後でした。それは単なる儀礼的なマナーではなく、もっと深い、「愛」にあふれた行為であるということ。人の話を聞けなかったことで、私は沢山の愛を失っていた可能性があったこと。

 

わずか三歳四歳から我が子に療育訓練を始めることの意味。それは人生に少しでも多くの愛を呼び込んで欲しいという願いでもあります。