モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

中庸を目指すってどういうことか

もうすぐ息子の幼稚園入園が迫っています。発達障害児はイレギュラーな行事が大の苦手です。入園式や遠足、運動会など、普通の子供の親が楽しみにしている行事に、一人パニックになる子供をなだめることがほとんどで、発達障害児の親は行事のたびに奈落の底に突き落とされたような気分になることが多いそうです。

 

息子の幼稚園の教育方針は「中庸」。これは「普通であれ」という意味ではなく、「人は人の間でしか生きていけないから、極端に偏ることなく生きていけるようにする」ということらしいです。幼い頃の私は、こういう言葉が大嫌いでした。「結局、偏ってる自分はダメってことか。普通でいろってことかよっ!」と考えて、拒否反応を起こしていました。でも今自分がここまで生きてきて、この「中庸」という言葉にはとても肯けるものがあります。この教育方針は、「偏っているからダメ」ということではないのです。大切なのは、「人は人の間でしか生きられない」-ここの部分なのだと最近気づいたのです。

 

この数か月、息子の発達障害が判明してから、私も様々なことに取り組んできました。前頭葉の未発達が多動の原因だと分かり、体操教室に通わせ始めました。トランポリン教室にも通わせ始めました。しかし、それは苦労の連続でした。息子の脳は聞こえてくる沢山の音の優先度づけが出来ません。体操教室で聞こえてくる音(隣のダンスクラスの音楽、先生の声、観客席の赤ちゃんの声)がワーッと頭に押し寄せてきてしまうため、肝心の目の前の先生の言葉が理解できなくなります。さらにADHDによる衝動性が強いため、順番を待つことができません。重力不安があるため、ジャンプしたり、跳び箱を飛んだりすることもできません。息子は知能に遅れがないため、家で私が相対しているときはそれほど「発達障害っぽさ」を感じることがないのですが、体操教室で「普通の子(発達障害ではない子)」と並べてみると、その違いに愕然とします。そして、私は毎回泣きたい思いです。

 

先日、遂に息子が「体操教室行きたくない」「楽しくない」「ぼくはできないんだ」と言うようになりました。発達障害の子供は、嫌いなことは絶対にやりません。娘はあれやこれや褒めそやしていれば調子にのってやる子でしたが、息子は「これはイヤだ」と言い出したら、何を言っても無駄です。実に、ごまかしの利かない子供です。

 

そこで私は気づいたのです。普通の子が運動能力向上を目的として行く体操教室と、いわゆる発達障害児の療育とでは、同じトランポリンや跳び箱をやっていたとしても、メソッドも目指すところも全く違ったのだと。

 

普通の子の体操教室では「流れに乗せる」ことが大事だと言われます。周りが流れにのってどんどんやっているから、それに一緒にのせてしまう。そうやっているうちにいろいろなことが出来るようになる。

 

けれども、そもそも発達障害児というのはなぜ生きづらいかと言えば、「流れに乗れない」からなんです。(「空気が読めない」というのもその一貫かも)「流れ」という漠然としたものでは分からないから、動きを分解して教えなければならないんです。縄跳びであれば、手を回すということと、飛ぶということを別々に練習させる、そしてそれを組み合わせるということを教えるのです。

 

私はその「普通の体操教室」と「療育の体操」のメソッドと目的の違いを、完全に同一視していました。そして、息子に早々「失敗体験」をさせてしまったのでした。

 

発達障害のお子さんの親御さんで、習い事に行かせることを「少しでも普通に近づけるため」とおっしゃる方がたまーにいます。辞めたい、辛い、と泣き叫ぶ子供に、「これはあなたが普通である証拠なのだから、お母さんはやめて欲しくないの」と言っているのを聞いたこともあります。

 

ここで「中庸」というのは一体なんだろう、とまた考えています。嫌がる子供に「普通である証拠」と言って、「普通の子供たち」の中で頑張らせることが「中庸」なのか?そこで数々の失敗体験を積ませ、それでも努力をすることが「中庸」なのか?私はこの言葉の意味はそういうものではないと思っています。

 

私は体操教室もトランポリン教室も、もうやめさせることにしました。その時間とお金は、療育に使っていくことにします。今興味があるのは、音楽療法や言語療法です。発達障害児を対象にした療育プログラムは、調べてみると沢山あります。

 

「普通の子」に近づけることが中庸ではなく、「自分なりの居場所を確保して、自分の良さを引き出せるグループに所属する力をつけたうえで、生活や人間関係に伴う困難をなくしていく」こと、それが「人の間で生きていくこと」だと私は思うのです。

 

「中庸」って、だれとでも仲良くできる力を持つことではないんです。自分の力を引き出してくれる仲間を見つけていく力だと思うんです。自分が「この人たちがいるから頑張れる」と思える場所を、作っていく力だと思うんです。それはつまり、自分を大切にするということだと思うんです。

 

私は、息子が「普通の子」であるという証明なんていらない。そんなことを証明するために子育てしているわけじゃない。たった二カ月の体操教室、息子にとっては本当につらい時間だったと思います。

 

息子くん、いつも奇声をあげて、脱走して、みんなに冷たい目で見られてしまったね。私以上に、君がしんどかったんだろうね。それでも三歳にして「もうやりたくない」と言える力があるのは、素晴らしいよ。これからは、君をもっと温かい目で見てくれる人たちを探そうね。世界には沢山の人がいるから、きっと大丈夫だから。