私がスピリチュアルにはまっていた頃
私の周りにはスピリチュアル(以下スピ)にはまっている人がとても多いです。夫の妹も、オーラを浄化するスプレーだとかパワーストーンのブレスレットのインターネット販売などをやっています。これがまた、儲かるそうです。
かくいう私も、数年前、スピにはまっていた時期がありました。スピの勉強会や集まりには足しげく通っていましたし、毎日「オポノポノ」を実践し、通勤バスの中で「ごめんなさい 許してください ありがとう 愛してます」と唱えました。嫌いなママ友に会わなければいけないときは、オーラを浄化するスプレーを吹きかけ、スピのヒーラーに教わった通り「オーラにバラの花がシールドを作るイメージ」を作って、出かけたものです。
ふと気づいたら、親と遠く離れた場所に引っ越して以来、とんとスピのことを考えていませんでした。本棚に増殖を続けていたスピ関連の本は、発達障害関連の本に取って替わられていました。
スピに傾倒していた当時、私は両親と同居していました。娘が幼稚園を卒園するまでは我慢しよう、そう思っていたので、とにかくどんなに追い詰められてもその場で頑張るしかありませんでした。
スピの集まりに行くと、毒親に身も心も破壊されかけていたけれども、スピに救われたという人がそりゃ多かった。すごいときには、スピのヒーラーさん(先生みたいなもん)が、「モビゾウさんのブログを読んで毎日大泣きしている」と言ってきたほどでした。スピとは一体どういうものなのか、なぜ毒親持ちの救いになるのか、ここで落ち着いて考えてみました。
ここで私が尊敬する(笑)、加藤諦三先生の言葉を引用してみたいと思います。
モラル・ハラスメントをする人は、「あなたのため」というモラルにしがみつく。「家族のため」というモラルにしがみつくサディストの親がいる。同じように、「あなたのため」というモラルにしがみつく多くの人々が、職場にも学校にも公共の場にもいる。
モラル・ハラスメントをする人は、自分は素晴らしいことをしているつもりで、相手の心を引き裂いている。自分の中のサディズム的衝動を満足させつつ、自分は聖人だと思っている。
モラル・ハラスメントをする人は、自分が「愛」と思い込んでいたのは、サディズムが変装した姿であると理解できない。自分は相手を愛してるのではなく、相手をサディズムで支配していたのだということが理解できない。
毒親だけではなく、会社の上司にせよ、友人にせよ、「愛」「友情」「みんな仲良く」という「きれいごと」を振りかざして相手を支配しようとする人は沢山いて、こういう人たちに関わると、心身ともに壊滅的なほどにボロボロにされます。本当の悪人は、善人の仮面をかぶって現れます。
こういう支配から脱却するためには、「愛…って?なんだ?」「みんな仲良く…って本当に大切か?」「あなたのため思って…って、結局自分のためじゃないの?」という風に、「きれいごと」に疑問符をつけていくことが必要になってきます。疑問を持てるところまで来られたら、もうそれは脱出間近なのです。「立派な言葉」「美しい言葉」に抗うことは、強い罪悪感を伴いますから、そこに疑問を呈することはそんな簡単ではないのです。
さて、そこでスピというのは、ですが。この「愛…とは?」という疑問を上から塗りつぶすように、「人は愛だ!」「愛は幸せだ!」「みんなに感謝!」「みんなありがとう!」ということを強制的に自分に考えさせるものです。言霊とでもいいましょうか、「愛だ!」「幸せだ!」「感謝だ!」と言っていれば、人は幸せになるんだよ~というのが基本的な考え方。
これ、決して悪いものではないと思うんです。疑問を呈したからといって、逃げられない状況の人というのは沢山います。ひとたび疑問を持ってしまったら、もう生きていくのが辛すぎる状況の人というのは沢山いると思うのです。私は親と同居していて本当に辛かったけれども、娘の幼稚園が終わるまではどうしても衝動的に逃げるわけにはいかなかった。我慢しなければならなかったのです。そのとき、私は強烈にスピに惹かれました。親にバカにされながら「派遣社員」として通勤するなかで、ふと気づくと死にたくなる自分がいました。そんなとき、私はひたすら「ありがとう ごめんなさい 許してください…」とオポノポノを唱えました。仕事が終わっても、帰るのは親の家です。お疲れ様と言ってもらえるわけでもない、「どうせ派遣だろう」という暴言に耐えなければならない。その現実を見ないために、私はオーラスプレーを何度も吹きかけたのを覚えています。
「きれいごと」による支配に気づく、というのは大変なことです。しかしそれは、大変な負荷を自分の生活にもたらします。いてもたってもいられないような罪悪感と苛立ち。そして、逃げ道が確保できないときは、それこそ地獄です。
スピは宗教ではありません。私のように、思わしくない状況から逃げ延びることができたら、忘れてしまっても誰も責めません。誰に忠誠を誓ったわけでもないからです。
私は確かにスピから離れて、根っこの部分にあった自分の苦しみに向き合った後のほうが幸せにはなれました。でも、スピに救われているという人を、否定する気持ちは全く起こりません。
人生は思うようにいかないことだらけです。針のむしろのような生活から、どうやったって逃げられず、とにかく生きていくだけで精一杯の人たちもたくさんいます。そういう人たちに「苦しみに向き合え!!」ということほど傲慢なことはありません。一生苦しみに向き合いたくないのであれば、それはその人の自由です。大切なのは苦しみに向き合うことではなく、生き延びることだから。
私は、今もスピには感謝しています。