モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

コミュ障だった私が息子にできること

世に「コミュ障」という言葉があります。「発達障害=コミュ障」だという理解をしている方が結構いて、「夜中に突然電話をかけてくる」「やたらとべたべたしてくる」ことに対して「多分、あの人は発達障害」という決めつけをするツイートを見ました。正直、発達障害の息子を持つ私としては、胸がえぐられるような気分でした。

 

確かにうちの息子は、異様に人懐っこいのに、なんとなくうまく会話が成り立たないような不思議な空気を持っています。道にいる誰にでも抱きついたり、手をつないだりしてしまう、宅急便のおじさんにもべたべたする、でも、こちらの質問にはきちんと答えない。どこかで覚えた不思議な言葉をブツブツと言い返したり、質問の趣旨が分からなくてオウム返しをしたりします。

 

彼が発達障害だと分かってから、私は彼に対する対応の仕方を100%変更しました。普通の子供に対して期待できる理解力が、彼にはなかったからです。定型児である娘と同じように育てていたら、息子は癇癪を起こす頻度が増えていくばかり。それもそのはず、二人は同じ人間だけれども、脳の伝達のシステムが明らかに異なっていたのです。

 

それでも私には一つだけ確信していたことがありました。

 

物事は無数のパターンで構成されている。そのパターンを分析して、いくつも覚えこんでいけば、相当な範囲でうまくやっていくことができるはずだと。

 

手前味噌で申し訳ないのですが、以前このようなまとめを作成して頂いたことがあります。

 

モビゾウさんの基礎についての一連のツイート - Togetterまとめ

 

この娘のピアノに関する話は、「基礎が大切」ということを強調しているわけですが、この「基礎」ってのは実はイコール「パターン」なのです。娘のピアノの先生は、楽典の学習の他に、ピアノの曲の中で出てくるいくつものパターンを、順番に覚えさせます。それによって、難しい曲が出てきたときに、「あ、難しく見えるけど、曲って基礎パターンの組み合わせなんだ」ということに気付くわけです。おかげで娘は、普段は毒にも薬にもならなさそうな退屈なパターン学習をさせられていますが、発表会などでグッと難しい曲をサクッと弾けるようになってしまいました。

 

これは私の翻訳の仕事などでもそうです。まあある程度の英語力は当然必要とされる仕事ではあるのですが、ネイティブの書いた論文などにあるパターンを拾ってきて、いくつもそれを組み合わせていけば、かなり感覚が掴めてきます。同僚の翻訳者たちも、訳しながら常にネイティブの論文表現を「拝借」しています。翻訳というのは英文をクリエイトするというよりも、パターンを組み合わせていくのが楽しい仕事なのです。そして、クリエイティビティは、パターンから逸脱することではなく、パターンを組み合わせていくことから生まれるんじゃないかと私は思っています。

 

脱線しましたが、実は勉強や仕事だけでなく、人間関係も、この「パターンの組み合わせ」で相当程度なんとかなるのです。これに気付いたときは、私は本当に目の前の霧が晴れたような思いでした。人付き合いとかコミュニケーションって、生まれ持った素質からは逸脱できないと私は思い込んでいました。「性格だから、もう仕方ない」と。

 

私が息子の発達相談に赴いたとき、心理士さんに息子のコミュニケーションについて「質問と答えをセットで教えてあげてください。それでパターンを覚えこませてください。」と言われました。「○○くん、寒いね~。うん、そうだね、寒いね。」のように。こういう「自然な会話の仕方」を、定型のお子さんは多分、自然に覚えていけるんだと思います。でも、息子はこれをパターン化して最初から教える必要がありました。なんだか子供の自分で伸びる力を奪っていくような罪悪感もありましたが、Q&Aをセットで教えるようになってから、息子の語彙力は飛躍的にアップしました。以前はオープンクエスチョンにうまく答えることができませんでしたが、最近は幼稚園での出来事などを説明できるほどになりました。息子は、まずパターンを教えなければ、会話能力を自分でうまく伸ばすことはできなかったのです。

 

やたらと人に懐っこいところは、まだ三歳だから無理に制止はしていません。もう少し大きくなってきたら、「人と接するときは、ひじから指先までの距離を取りましょう」と教えるように心理士さんに言われました。何か指標がはっきりと見える形であったほうが、本人も理解しやすいんだそうです。

 

私も実は、息子にエラそうなことなど言えない「コミュ障」でした。人と話すとき、自分の話ばかり一方的に喋ってしまったり、場にそぐわない暗い話をしてしまったり、興奮しすぎてドン引きされたり、とにかく「いい人なんだけど、ちょっと疲れる」と周りに思われていました(多分)。自分の「コミュ障」で本格的に悩んだのが、上の娘の幼稚園ママ友づきあいでした。お母さんたちと、「ごくごく普通のコミュニケーション」が取れない。幼稚園ではいつも浮いていました。お母さん同士仲良くなって、家族ぐるみで付き合いを始める人たちが増える中で、私は幼稚園の遠足も、娘と二人きりで弁当を食べました。娘に、「どうしてママと私だけ二人で食べてるの…?」と聞かれたときは、さすがに切なくて涙が出ました。

 

私は幼稚園ママ友づきあいで半分ノイローゼになりかかりましたが、どうしてもそこで逃げ出すわけにはいきませんでした。気持ち悪い言い方ですが、やはり娘が悲しんでいたからでしょうね。自分だけの問題じゃなかったんですよ。

 

 それからというもの、幼稚園に参じるたびに、ママ友たちのコミュニケーションを観察し続けました。もはやこれはフィールドワーク、現地調査です(笑。大学院時代に鍛えた分析能力を生かして、私はママたちの言語解析に励みました。

 

…半年も観察に集中したでしょうか。読めてきたんです。何かが。

 

最初に会ったら、まず「天気の話」。

次に、相手の服装を適当に褒める。

相手の子供のネタを適当にふる。

相手の話を否定しない。

 

出だしでこれが実践できれば、一時間でも二時間でも喋れるのです。以前、「雑談力」とかいう言葉が流行りましたが、コミュニケーションはまさに、雑談を制するものが制するのです。

 

こんなこと、なんの新鮮味もない人もたくさんいると思います。ふつうは、自然に覚えていくことなんです。でも私には、これはとんでもない発見でした。

 

発達障害児は、「普通の人が普通に習得すること」がなかなか習得できず、いろいろと生きづらさが出てくるのだと思います。けれども私は、「人生の多くのことはパターンを分析すればうまくいく」と実感を伴って感じるのです。だから、息子に対して出来ることは、まだまだたくさんあると思っています。

 

決して、「発達障害=コミュ障」として切り捨てないで欲しいです。

パターンを自分で読み込む力が少し足りないだけ。

ほんの少しの手助けで、パターンは覚えることができるのです。

 

 

一日の目標はよりよき眠り。

先日何気なくツイートした内容が、意外にいろいろな反応を頂いたので、ちょっとこれについて書きたい気分になった。

 

該当ツイートは以下。

 

 モビゾウ@孵化しますた@Movizoo2月14日

夜普通に眠れるって最高に幸せなことだよ。これ、一度不眠に苦しむと痛感するから。あたし、仕事がどうだろうと育児でイライラしようと、夜眠れるだけで全てオーライだと思って生きてる。そしてそう思って生きてると、寝れば嫌なことも忘れるようになる。

 

モビゾウ@孵化しますた@Movizoo2月14日

あたし、子供のことは割と適当なんだけど、夜決まった時間に寝せることと、朝決まった時間に起きることにはすっげえ厳しいの。親が子供に与えられるのは正しい生活習慣だけだと思ってる。それは自分が鬱やった経験からの拘り。

 

私が入学した大学は、当時「アメリカの大学並みに課題がキツイ」というのが売りで、課題のために大学に泊まることが普通だということを大学全体で自慢にしていた。課題のために大学に泊まることを「残留」と呼び、夜22時ぐらいになると各部屋を用務員さんが回ってきて、「残留届」というのを記入させられた。学生は「三連チャンで残留だよ~」「やべぇ、今日は残留決定」などと言い合うしきたりがあって、これがまた当時の私たちにはちょっぴりオシャレだったのだった。

 

「寝ないで頑張る」「寝る間も惜しんで成果を出す」って、若い頃の私には憧れだった。私にとっては「寝ないで頑張るほど好きな何か」を見つけることが、人生の目標だった。「寝食を忘れるほど好きなこと」ね。授業が終わったらさっさと家に帰るなんて格好悪いと思っていたし、残留続きで体から異臭が漂う男子は、キモイけど、素敵だと思った。そうだ、自分も絶対こうなりたいと。私はそんな気持ちを持ちながら大学院に進学した。研究は、やっと見つけた「寝食忘れるほど好きなこと」だった。私は朝の3時4時まで本を読み、論文を書き、翌日は昼前にゴソゴソと起きてきて研究室に向かった。あーやべぇーあたし格好いいー、憧れのあの感じだわーと思っていた。幸せだった。

 

29で子供を産み、育児と研究のダブルコンボのタスクをこなそうとしたら、睡眠時間は面白いほど削られていった。それでも頑張っても頑張っても、私は「まだまだ!」と思っていた。成果は面白いように出たし、睡眠時間なんてむしろ邪魔だと思っていた。

 

が。

 

変調を感じ始めたのは30歳になってすぐだった。夜何時に床に入っても、早朝3時か4時に目が覚めるようになった。以降、全く眠れない。これがうつ病の症状の一つである「早朝覚醒」であるということに気付いたのはだいぶ後で、私は「気を張っていると、朝も自然に早く目が覚めるんだよね!」と夫に自慢していた。3時に起きた私は、またそれから夜が明けるまで論文を読んだり書いたりしていた。睡眠の質は徐々に悪化を辿っていった。今度は、悪夢を見て大声をあげて飛び起きるようになった。それも一晩に何度も。夢に出てくるのは大抵母だった。

 

早朝覚醒と悪夢が毎晩のことになり始めると、私は身体のあちこちに変調が現れ始めた。ごはんが美味しくない。美味しくないからちょっとぐらい食べなくていいや、そうやって後伸ばしにしているうちに、どんどん痩せていった。当時、166cmの身長で38キロほどしかなかった。それから動けなくなって寝込むまで、そんなに時間がかからなかった。

 

その後、メンタルクリニックに通い、うつ病と診断された私は、抗鬱剤のほかに睡眠薬を処方された。薬の力を借りないと、もはや私は朝まで寝ることができなくなっていた。睡眠薬は朝まで体に残っているのか、朝は真っ直ぐ歩くことすら難しく、どこかによっかかると、どこでも寝てしまうほどだった。その生活は約二年続いた。あのときに私が思ったことは、「好きなことなんていらないから、ふつうに眠れるようになりたい。ふつうに美味しくご飯が食べたい。これまで30年間、どうしてそういったことを大切にせずに生きてきたんだろう。」ということだった。

 

その後、メンタルクリニックでカウンセリングを受けるようになった。そのカウンセリングの一環でやらされたのが「一日の生活のスケジュールを表にして提出すること」だった。朝何時に起きて、何時に食事をとって、何時に就寝する、そういったことを記録していくことで、規則正しい生活をすることがどれだけ大切なことか、実感できますよ、と言われた。

 

このワークをしていくうちに、私の一日の目標は「うつ病を治すこと」でもなく「何かを成し遂げること」でもなく、「決まった時間に眠ること」になった。明日の自分がどうなっていてもどうでもいい、十年後の自分がどうなっていてもどうでもいい、今日この日を決まった時間に眠って終わらせることができたら、それで全てオーライだ!と思って時間を過ごした。そう思い始めてから、私のうつ病は少しずつ軽快していったのだ。

 

それまでは、「寝ないで成果を出さなければ、人に追い越される」と思って生きてきた。それが、「ぐっすり眠って、楽しくご飯を食べて、それで出来る範囲でダメならば、もうそれは自分のキャパシティを超えているんだ」という風に考えられるようになった。

 

時を同じくして、私はキリスト教の洗礼を受けた。「日々の糧」という言葉に感銘を受けたからだ。「キリスト者として日々の糧に感謝する」、それは私にとってはつまり、「その日の食事と眠りに感謝する」ということだった。

 

子育てにおいても、私はここだけは拘っている。「寝食を忘れるほど好きなことを見つけろ」とか恐ろしいことを子供に言うつもりは全くない。私が子供に授けられるのは、正しい生活習慣だけだと思っている。

 

勉強ができないことよりも、運動ができないことよりも、仕事ができないことよりも、好きなことが見つからないことよりも、「眠れない」「食べられない」ことのほうがずーっとずっと悲しいのだ。夜眠れて、美味しく食べられたら、その日はそれで最高の一日だったんだよ、と思えるようになったら、人は強いよ。

 

だから子供たちの寝顔を見るのは幸せ。

その寝顔を見る前に寝落ちてしまうのはもっと幸せ。

 

 

「愛」にまつわるよしなしごと

 息子インフルエンザ罹患で一週間の停滞期を過ごしたため、ブログの更新が久しぶりとなりました。いやもう、あかんです。あれやこれや策を弄して、息子にいろいろと成長が見られて喜んでいた真っ最中のインフルエンザ。全て振出に戻された感じでした。一週間の自宅幽閉で、これまでの定着させていた生活パターンががらりと変わり、またまた多動と癇癪が復活中。母、疲労困憊であります。

 

さて、自宅幽閉中に、なんだか気持ちの悪い(しかしどこかで見覚えのある)議論がうじゃらうじゃらと湧いていたため、いろいろと頭ン中交錯するよしなしごとをまとめておきたい気分になりました。

 

議論の発端はこれ。「(親が子を)虐待するからと言って愛していないとは限らない」と言う発言をされた方がいたと。この言葉の気持ち悪さにゾゾケを覚えた人たちが、これに猛然と反論したという流れ。

 

虐待でもモラハラでもパワハラでも、とにかく支配被支配がつきまとう関係においてね、この「でもおまえのことを愛している」という「愛だろっ愛!」の正当化ってのはもう珍しいことでもなんともないというか。支配者の常套手段なわけですね。

 

かくいう私も、母親の過度な干渉に精神まで病んでしまった時期があったわけですが、「この人(母)が私の苦しみの原因なのだ」ということが分かっているのに、「この人の干渉から自由になりたい」と心から思っているのに、それを指摘したときの母が「母親の愛をあなたは蹂躙している」と泣くと、どうしようもない罪悪感に打ちのめされたものでした。「お母さんは、あなたのことを愛しているの。分かるでしょう?」と言われると、それまであんなに反抗していたのに、言葉が出なくなる。そして、涙があふれ出てくるのでした。その涙はなんだったのかと言えば、「愛している」という言葉を前に自分の怒りが封じ込められてしまう悔しさと、そしてやはり自分が何よりも希求していた「母の愛」を目の前でちらつかされて、どこかで嬉しかったのだと思います。

 

私はずっと母の愛を求め続けて生きてきました。自分がどんな状況にあろうとも、自分の全てを受け止めてくれる深い愛情を、求め続けてきました。私は母に満たされない愛情を他人に与えられることを求め、友達や恋人とも程よい距離感を保つことがどうしてもできませんでした。友達にも、恋人にも、「全てを受け止めて欲しい」という態度をとり、私の激しい感情のアップダウンを前に、だれもが私の前から去っていきました。「自分は愛される価値のない人間だ」という思い込みによって、友達や恋人を試す行為をやめることができず、私と関わった誰もかれもが疲れ果て、お互い心身ボロボロになって関係終了となることがほとんどでした。

 

私は数限りない「失敗体験」から人との距離感を学ぶことができたわけですが、失った人脈は膨大なもので、多くの人が「成功体験」を積み重ねてより良い人生を勝ち得ていくなかで、私は「失敗体験」からより良い人生を得てきました。得た結果が同じでも、心身の疲弊と傷つきは比にならないと思います。その疲れが爆発したのが、私の二年間のうつ病時代だったんだと思います。

 

うつ病にかかり、トイレに立つことすらまともにできなくなり、私は大学院を中退しました。もう少し頑張れば、研究者として活躍する未来が見えていた頃でした。それなりに成果も積み重ね、本当に「もうちょっと踏ん張れば」という時期でした。

 

私は死ぬか生きるかぐらいの苦しみのときにありました。人生で一番苦しいとき、こんなときこそ母は私に優しい言葉をかけてくれるだろうと心のどこかで期待している自分がいました。病床から「鬱病で起き上がることもできない。大学院を中退することにした。」と電話をかけた私に、母は泣きながらこう言いました。

 

「人に言うときは、大学院は『満期退学』って言っていいの?『中退』って言わなくていいのよね?『中退』は恥ずかしいよ。」

 

私は、自分の中の全てが瓦解する音が聞こえた気がしました。あのとき頭に響いた音は一生忘れません。全てが崩れた音でした。母が泣いている理由は、私が憐れだからではありませんでした。『中退』って人に言いたくない、それだけでした。

 

それは私がずっと求め続けた「母の愛」に絶望した瞬間でした。その瞬間は、いともあっさり訪れたのでした。全てが崩れた感じがすると同時に、まるで霧が晴れたような気分になったことを今でも思い出します。そして「母の愛」に絶望したこのときから、私は周りとの付き合い方が大きく変わってきた気がします。深い愛も、全てを受け止めてくれる愛も、私は求めることはなくなりました。自他の領域を確実に掴み、他者の生活や気持ちに侵入するような真似をすることがなくなりました。「あ、人間関係の距離感ってこういうものか」と、ようやく体感することができるようになりました。それは私の「生きづらさ」「人間関係の不得意さ」に革命をもたらしたと言っても過言ではありませんでした。そう、私の人生は、「母の愛」にさようならを言った瞬間から始まったのでした。そして不思議なもので、母の愛を諦めたときから、私を引き立て、理解してくれる人たちが沢山現れるようになりました。そういう人たちの力で、私は自分の人生を立て直すことができました。母の愛を諦めたら、周りに母より大切な人が沢山現れたのでした。

 

「母の愛」を手放したあの日から、私は「愛」を求めて生きていくのではなく、「楽しいこと」を求めて生きていくようになりました。誰かの愛じゃない、「自分が楽しい」と思えること、それを決断の基準にするようになりました。そうしたら、面白いほどに人生がうまくいくようになったのです。

 

「愛」に絶望して初めて、見えてくるものってたくさんあります。

 

あのとき私が「母の愛」に絶望しなかったら、私は今でも「愛」という漠然としたものの奴隷だったでしょう。

 

「愛」を信じていたい人は信じていればいい。きっとその人はそれで幸せなのでしょう。でも、「愛してるなんて言われたら、熨斗つけて返してやる」と思うのであれば、それも自分が苦しみのすえ手に入れた、一つの自由の形だと思うのです。成果だと思うのです。

 

それでもあのときの絶望した気持ちを思い出すと、今でも胸がチクッと痛いです(笑

 

 

「ごめんなさい」の引き寄せるもの

ここ数日、#アホ男子母死亡かるた 界隈で、非常に後味の宜しくない展開を目にしておりました。もう今さら私が経緯をゴタゴタ書くようなものでもないので、そのあたりは省略します。経緯は以下のリンク先で既に詳細に説明済。

 

「アホ男子かるた出版の件」スズコ、考える

 

#アホ男子母死亡かるた togetter まとめ

 

これなあ、出版社からの仕事を受けた著者(イラストレータ)さんも各所各所で脇が甘くて、とにかく駆け出しの自分に大仕事がきたっていうんで、この出版社のきな臭さに嗅覚が働かなかったんだろなあ。とはいえ、仕事として金もらうものなわけだから、「一主婦にそんなこと言われても…」という言い訳はあまり褒められたものではないとは思うけども。ほんでもこのイラストレータさん、今何考えてるのかなあ、と考えて、なんとなく気分が塞いでしまうわけです。お節介は承知のうえで。

 

実は私の義妹はフリーのイラストレータをやってまして。フリーになって三年目、ようやく最近はレギュラーの仕事も増えてきて、売れっ子の仲間入りしてますけど。会社辞めて独立したての頃の彼女の必死さとか、もう思い出すに壮絶なもので。仕事がこねえ、だけどプロフィールに実績がなきゃますます仕事はこねえ、彼女、親戚の個人商店のチラシ作ったり、父母姉妹の名刺作ったりして、「名刺作成」「○○商店様のパンフレット作成」とかを実績にしてましたがな。さらに画廊を親に借金して借りて、無理くり個展とかやってました。とにかく、「仕事があるふりをする」「何が何でもプロのイラストレータと言い続ける」という壮大な見栄を張り続け、気づいたらあれよあれよという間に売れっ子になってしまいました。

 

私はこういう壮大な見栄を張る精神力がないので、フリーには絶対なれないと思っています。これも一つの強さです。

 

んでまあ、こういう「喉から手が出るほど実績が欲しい」人間の特性をよーく分かって、そこにアグラかいて悪質な仕事をさせようとする出版社もいるだろうよ、と義妹を見ていてずっと感じていたわけですが、今回図らずもその現場を見てしまった感じでした。今回、パクリ本に絵をつけたイラストレータさんから沁みだす素人っぽさ、脇の甘さを、この悪質出版社は一瞬で見抜いたのだと思います。(だからと言ってイラストレータさんを被害者/犠牲者扱いするものではありません、念のため)

 

実はこれ、別にイラストレータやその他フリーの職種に限った話ではないと思うのです。人の弱みにつけこんで、不当に労働力を搾取しようという会社や経営者なんてこの世に溢れています。「法律に違反してないんだからいいだろう」と法律の隙間をかいくぐって、他人の心を踏みにじる人たちなんて掃いて捨てるほどいます。

 

私も不思議なことに、そういう会社や経営者とばかりご縁があった時期がありました。一番ひどかったのは大学院を中退し、仕事を探していた時期だったと思います。大学院の博士課程中退なんぞというのは、就職活動には何のプラスにもなりません(少しはプラスになるかと思ったが、全然。むしろ最初からマイナス何個もつく状態でした)。さらに私には、当時一歳の娘がいました。幸い保育園には既に入所していましたが、まだまだ熱を出して保育園からお呼び出し…と言う日が冬には何度か発生していました。

 

仕事を探すために最初に行ったのがハローワーク。そこで、「残業できませんよね?」「急なお迎えのときはどうしますか?」という質問をされました。「とにかく面接の予約だけでも取れませんか」と斡旋のスタッフさんに頼み込み、その場で人事に電話をかけてもらいました。何を話しているのか、一発で分かりました。斡旋のスタッフさんが、「えーと、職歴、職歴はナシです!!アルバイトぐらいはやったことがあるみたいですけど。事務経験もナシ!」と説明しているのが聞こえました。私の特技(スキル)なんて何も話に出ない。職歴ナシ=スキルなし、の現実。

 

その後、私は大手の派遣会社にいくつか登録しました。「子どもの急なお迎えのときはどうしますか?」という質問には、もう「親が手伝ってくれます」と嘘をついて乗り切ることにしました。でも、「ずっと大学院に行っていて、職歴がない」ということだけは、どうやっても乗り越えることができませんでした。派遣会社はいつまでたっても仕事を紹介してくれず、電話の前で待ち続ける自分が情けなくて泣けました。学歴より職歴、この現実。

 

「自分は労働者としては市場価値ゼロかあるいはマイナスの人材なのだ」

 

「こんなどうしようもない私でも使ってくれるところだったら何でも感謝だ」

 

「誰でもいい、使ってください」

 

大学院中退した当初は、「自分を欲しい会社はいくらでもあるだろう」という気持ちでいたのに、私の自己評価はここまで下がっていきました。「こんな私でも良ければ、使ってください。お願いします。」そう思い始めたとき、以前登録していた派遣会社から突然連絡がありました。紹介された案件は、(今の自分から見れば(笑))明らかにきな臭さ満載のものでした。「社員は社長とオーナーともう一人の三人だけ。少人数で和気あいあいとしています。(←出た!「和気あいあい」!)」「以前、派遣していたスタッフが社長さんと合わず、契約取り消しになりまして」とのことでした。

 

働き始めて分かったのですが、社長はオーナーの愛人。派遣スタッフは社長のいびりで半年で六人も入れ換わっていました。私はこの社長のいびりのために数週間で急激に鬱が悪化し、最後は半分逃げ出すようにして職場を辞めました。このときの恐怖体験は、その後一年ぐらいはずっと夢に出てくるほど、自分の心にダメージを与えるものでした。

 

「職歴なくてごめんなさい」「スキルなくてごめんなさい」「小さい子どもがいてごめんなさい」

 

沢山の「ごめんなさい」が生み出す臭気を、悪質な経営者や会社はチスイコウモリのように嗅ぎ分けて寄ってきます。そして沢山の「ごめんなさい」があると、こういう悪質な人々から発せられる「きな臭さ」に、いざ自分自身が「アレっ?」と思っても、「まあいいや、考えないことにしよう」と思考が遮断されてしまうのです。そしてループは途切れることなく繰り返されます。「ごめんなさい」を心に抱えている限り。

 

今回は悪質な出版社が出版を無期延期にしたということで、ツイッター民の怒りが無駄にならなかったという(後味は悪いが)それなりの前例にはなったと思います。でも、弱い人間の心にアグラをかく悪質な人々というのは、やっぱりなかなかなくならないと思います。だから、やっぱりこういう人たちに好かれない体質というのを身につけるしかないんです。良い経営者、善良な人々に好いてもらえるような体質を作っていくしかないんです。

 

結論から言えば、私は悪質な経営者のいた会社は夜逃げ同然で辞め、その後は小規模経営の派遣会社の社長さんに拾って頂き、メーカーで翻訳の仕事をすることとなりました。そこでも、そして転職した今も、本当に上司にも同僚にも恵まれてきたと思います。それは、沢山の「ごめんなさい」を、毎日仕事をしながら少しずつ少しずつ捨てていったからでした。私でも人にありがとうって言われるんだなあ…と気づき始めたときから、人生の流れが少しずつ変わっていったように思います。

 

一年前、二回目の就職活動をしたときには、もう自分は「職場を選べる」状態になっていました。いくつか提示された選択肢のなかで、一番自分が納得のいく職場を選ぶことができました。

 

悪い人はいなくなりません。

 

何度かそういう人に利用されるという失敗を積み重ねて経験値を積むという方法もありますが、そういう人に利用された後のダメージの大きさというのは計り知れません。下手すると、何年も立ち直れないぐらいのダメージになります。

 

そんな大きなダメージを負って、それでも立ち直って頑張れればそれでいい。だけど頑張れずに折れてしまう人だってたくさんいると思うんです。

 

だから、心の中の「ごめんなさい」を少しずつ降ろしていくこと。悪質な人に人生を奪われないように。悪質な人々の臭気に、いちはやく反応して距離を取れるように。

 

 

子供に介入すること、子供と向き合わないこと

発達障害って具体的にどんなところがおかしくて気が付くんですか?」という質問をたまに受ける。この質問は答えるのがとても難しい。なぜなら、どれも「子供ならそんなものじゃない?」「うちだってそうだよー」「そのうち落ち着くんじゃないのー?」と言われてしまうような、「一般的な子供の特性」であるからだ。多動しかり、拘りしかり、癇癪しかり。どう説明したって「子供なんてそんなもの」としか言われない。それでも発達障害を疑う親は、自分の子供に対して圧倒的な違和感を覚えている。それこそコントロールの仕方のヒントすら得られない、朝起きたら目の前が暗くなり、「寝顔が可愛い」と思うより前に「この子が起きるのが怖い」とすら思うようなものである。私にとって、息子は「違和感」よりも「恐怖感」を喚起させる存在だった。

 

どれも「子供なんてそんなもの」としか言いようのない特性なのだが、私が決定的に「この子は違う」と勘付いたのは、その異様な「拘り」であった。例えば娘を習い事に連れていって、その待ち時間に用事があって100円ショップに立ち寄ったとする。私はそこでついつい息子に救急車のおもちゃを買い与えてしまった。そこから、息子は「娘の習い事の待ち時間=100円ショップで救急車」というパターンを脳に組み込む。それこそ、同じ救急車が100台あってもその行動を止められない。「今日は100円ショップは行かないよ」と言うと何十分にも及ぶ癇癪を起こす。癇癪をおさめるために、自家用車に乗せてドライブをしたことがある。癇癪はおさまって機嫌が良くなった。しかし、次は「娘の習い事の待ち時間=車でドライブ」という新しいパターンを脳に組み込む。拘りは収束することがない。パターンを変えたり、パターンを増やしながら、拡大していく一方なのである。

 

息子が発達障害の診断をくだされるまで、私たち家族は外出すら満足にできない状態だった。外出をして何かをする、そうすると息子がそのパターンを脳に組み込む。そしてそれは激しい拘りとして私たちを苦しめるようになる。もはや何もしないことが一番安全だった。私たちは家に閉じこもって時間を過ごすか、何もない広場や山(刺激が少ないため)に息子を連れていって、ひたすら走らせた。私も夫も、そして娘も、心身ともに疲れていた。

 

結論から言うと、息子の拘り行動は現在は相当減退した。一瞬、拘りを見せても、すぐに彼は忘れるようになった。

 

私はずっと不思議に思っていたのだ。息子自身がパターン化した行動に飽き飽きしているように見えるのに、それでもなぜそのパターンから抜け出せないのか。息子はなんだかとても苦しんでいるように見えた。とにかく脳が指令するからパターンをこなす。拒否されると癇癪を起こす。彼自身もどうしたらいいのか分からず、とても辛そうに思えた。

 

さまざまな文献に当たってみて、私は知った。発達障害児の「拘り」は、「全面受容」をして「あるがままを受けとめられた」群の予後が最も悪いということ。拘りの連鎖のなかにはまりこんでいる子供に、親は積極的に「介入」しなければならない。「介入」していくなかで、子供は少しずつ拘り行動をコントロールしていくことができる。

 

ではこの「介入」はどうやるか。そのツボは「子供に向き合わないこと」である。子供の要求や興味を、どんどん逸らしていくのだ。「100円ショップで救急車が買いたい」と言ったら、「あっちの建物までスキップで追いかけっこしてみようか、よーいドン」などと声をかけてみる。子供が何をしたいか、何を欲しいか、それに触れちゃダメだ。無視するんじゃない、逸らすんだ!

 

子供に介入するとか、子供とちゃんと向き合わないとか、上の娘を育てていたときには私はそういう言葉は一番嫌いだった。一人の人間として、自分の子供を裏切っているような気すらした。今だって、この言葉だけ聞けば、イヤな気持ちになる人もいるだろう。

 

でも、「あるがままに受けとめる」とか「そのままのその子を認めてあげる」ということで、発達障害児は状態が悪化していくのだ。私はそういう言葉の美しさにとらわれ過ぎて、遂には暴走していく息子に追いつめられていくこととなった。

 

子供に介入すること

子供と向き合わないこと

 

発達障害児を持つ親御さんは、そうすることで親子の関係が著しく向上したという方が結構いるんじゃないだろうか?「抑制」するのでもなく「全面受容」するのでもなく、適度に介入して子供に向き合うことをやめて初めて、その子を受けとめる土壌ができるのだ。少なくとも発達障害児の子育てにおいては。

 

そしていずれ親が決して介入できない領域が子供の前に立ちふさがってくる。それは、人との出会い。人とのコミュニケーション。

 

生きづらさの中で、「ああでも、こんな素晴らしい出会いがあるのであれば、人生棄てたもんじゃないな」と子供が思えるような出会いが沢山あるように。私たち親はもうその領域に関しては、ただただ祈ることしかできない。

 

介入できるうちに介入しよう。

向き合わなくていいから、うまく逸らして楽にさせてあげよう。

 

そして最後は祈ろう。

この子に素敵な出会いを。大好きな人が沢山現れますようにと。

 

 

 

私の「怒り」を分析してみた

昨日、「息子が発達障害児」ということをカミングアウトした折、初めて爆弾発言に遭遇した。

 

「やっぱり親がちゃんと手をかけないとそうなっちゃうんですね~。私も気を付けよう。」

 

テレビや漫画ではよく見るこの手の「無知発言」。現実世界でもいた!しかも結構な高学歴のワーキングママさんから、この発言が飛び出した!その場では爽やかな微笑みを返し、デスクに戻った私だったが、そのまま彼女の元に戻って、横っ面を引っ叩いてやりたい衝動にかられた。こういうときは、そうだ、夫だ!夫に電話して落ち着こう!ドカドカと仕事場を出て、夫にコールする。当然あちらは仕事中。出ない。夫に対応してもらえないと、また怒りが増幅する。また彼女のところに行って、その辺にあるファイルや書籍を手当たり次第に投げつけたくなってきた。手はブルブルと震え、口はワナワナワナワナ忙しく動いた(笑。

 

結局私は、トイレに閉じこもった。そして、ツイッターで「こいつに呪いをかけてやりたい!」と打ち込んだ。即座に帰ってきたフォロワーさんからの多数の反応は、リアルに私を窮地から救った。震えるような怒りはスーッとおさまり、「ああ、本人に怒りをぶつけなくて良かった」と何度も思った。ツイッター、偉大である。

 

後になって考えてみたのだ。なぜあんなにワナワナするほどの怒りに震えたのか。これまでだって、素っ頓狂な反応はいくらでもあった。「いや、そうじゃないからw」みたいな反応ばかりされた。でも、私は別に腹はたたなかった。

 

昨日の言葉は、それは息子の発達障害の原因を「母親である私」に求めるものであった。どうして「自分が原因だ」と言われることで、ここまで私が動揺したのか?

 

上の娘を産んで、育てて、幼稚園に入れた頃、気づいたことがある。多くの親にとって、答えの見えない育児というものに取り組むにあたって、「後ろめたいこと」ってすごく怖いのだ。「世間様」に後ろめたいこと、そして、子供がいずれ大きくなったときに自分が後ろめたくなりそうなこと、そういったものを避けるために、多くの親はものすごいお金と労力を使っているということ。「後ろめたい」ってつまり、「母親のおまえが悪いんだー!」と言われそうなこと。

 

一つの例に過ぎないけど、「人並みのことはさせてあげた」「叩かずに育てた」とかもそうで。「これさえやっておけば、世間にも子供にも責められることはない」ということを、すごい執念で追及している人ってすごく多いということ。

 

私の母親なんかは、まさにこの「後ろめたいことが一切ない育児」にこだわり続けてきた人で。大きくなってから私が親との関係に疲弊し、鬱になったとき、私は母親を責める言葉が一つも思い浮かばなかった。苦しさを表現しようにも、母は「何も悪いことをしていない」「人並み以上のことを私にしてくれた」人だったから。

 

でも。でもでも。

 

息子という人間の子育てでは、「世間様に後ろめたくない教育」が、やることなすこと裏目に出た気がする。いわゆる、世間で良しとされる教育法。「子供の目を見てしっかり話を聞きましょう」とか、「子供の言いたいことにちゃんと耳を傾けてあげましょう」とか、息子が発達障害と言われた後、これらのことが息子にとってどれだけ負担だったかが分かった。(ちなみにこういうことやめてみたら、癇癪がおさまったw)

 

私、思ったんです。息子という子を育てるうえで、私はもう「後ろめたくない育児」とはご縁がないなと。スタートラインから、後ろめたいことが沢山だから。だから、私は「後ろめたくない育児」をすることに費やす労力やお金を、別のことに使おうと。順番は待てないし、乱暴だし、場所をわきまえず大声を出すし、本当に「後ろめたい」ことが沢山ある子だけれど、だったら謝って謝り倒して頑張っていくしかないじゃない。最初から「後ろめたい」んだから、怖いものはないよね。

 

そして、世間様に後ろめたいことを沢山しでかしても、それでも私は君が好きだよ、そう言えることの幸せ。

 

私の母は世間的には立派な子育てをしてきた人だったけれど、私はいつも思っていた。「この人は学校の名前がなかったら、私のこと愛してくれるのかなあ?」と。親に対してこういう疑いを持つ哀しさ。何不自由なく育っても、心は決して満たされない。

 

 今回、ツイッターで多くのメンションを頂いて、発達障害児のお母さんたちが「それでも私はこの子が好きですよ」とお返事くださったのを見て、何か私は特別なものを感じた。

 

スタートラインが違うからこそ言える「好きだよ」かもしれない。

 

そう言えることがどんなに素晴らしいことか、どんなに幸せか。無理解な言葉、無知な言葉から気づかされたのだ。

アイデンティティ、「私は何者か」

自分の子供の発達障害を疑って書籍等を調べていくうちに、「なんだ、これ自分もそうだったじゃないか」という発見に至った人が私以外にも結構いた。私の時代にはまだ発達障害自閉症スペクトラムという診断名自体が存在せず、意味の分からない生きづらさだけを抱えて懸命に生きてきた人たちが沢山いたということだろう。私も例に漏れず、「ああ、かつての自分の苦しさの原因はここにあったか」と「発見」した一人だ。

 

しかし私にとってその「発見」は、過去の自分の苦しさを説明するものではあったが、今の自分の生活にはそれほど重要なことではなかったように思う。ここでは説明しきれないほどの紆余曲折と失敗を繰り返し、私は日常生活がそれによって阻害されるようなことはほとんどなかったからだ。自分に合った仕事も出来ているし、周囲と人間関係でトラブることもほとんどなかった。それなりに気の置けない友達も方々にいるし、娘のママ友たちとも割と良い関係を築けている。

 

私は現在進行形で発達障害と折り合うために苦悩しているフォロワーさんに「あなたはお仲間だ」と言われ、距離感をどんどん縮められることに段々としんどさを感じるようになってきた。「あなたは発達障害者だ」という前提で全ての会話が進行し、私は話題がうまくかみ合わないことに苛立ちを感じた。

 

後のツイートで私は書いた。「他人のアイデンティティを他人が決めちゃいけない」と。

 

アイデンティティ、「私は何者か」ということは、自分を他人と区切る、自分だけが持てる定義である。他人がなんと言おうとも覆すことのできない、いわば自分の「居場所」である。

 

医者が「あなたは発達障害です」と告知する権限があるのは、その人が現に自分の何かに困って相談しに行っているからである。そこに医学的見地とデータから見解を述べるのは、何も悪いことではない。

 

私は自分が発達障害的傾向があったから翻訳という仕事を選んだわけではない。全くの偶然で今の仕事についているわけだが、その間に沢山のことを克服してきたし、人との関わりも失敗を繰り返しながら学んだ。

 

「私は何者か」ということを語るときに、何を選ぶか、何を重視するか、それは個人に与えられた自由である。「アイデンティティ」というのは、そのような他者が介入できない何かである。

 

そしてこれは、この先息子との関わりの中でも生じてくる問題である。息子のアイデンティティを決めるのは息子自身だ。息子が何らかの生きづらさを感じ始め、そこに答えを求めるようになったら、私は発達障害について何らかの形で伝えるかもしれない。けれども、「あなたは発達障害だ」と息子のアイデンティティを私が規定する恐ろしさ、罪深さ。子供にとって親が規定する自分というのは自己イメージの形成において大きな影響力を持つ。良くも悪くもだ。私は母に「あなたはお母さんの子供だから数学ができない」「お母さんの子供だから体育ができない」「あなたは人間関係が下手だ」などと言われたことで、私の人生から重要なことが沢山奪い取られた。

 

アイデンティティは他者の影響によって移り変わっていく流動的なものではあるけれど、他者が規定するものではない。その境界線を侵害する権利は、誰にもないのだ。自分が何者かであるか、それをしっかりと両手に握りしめて、私は生きていきたいのだ。