モビゾウ研究室

ツイッター(@Movizoo)で語りきれなかったこと

結局のところ「距離感」ってなんだろう?

人と適切な距離感を取ることができるって、一体どういうことなんだろう、と昨晩ふと考えてしまいました。

 

このブログでも何度か「人との距離感をつかめて、人付き合いが楽になった」というようなことを綴ってきたわけですが、これ、とても抽象的で分かりにくい話ですよね。人との距離感って、人間づきあいの中で失敗したり立ち止まったりしながら少しずつ体得していくもので、「こうやったらできた」という簡単なものではないです。でも、一つだけ、「これができるようになってから、人と適切な距離感で付き合えるようになった」というものがあったのを思い出しました。

 

それは、人付き合いで「私」を主語にすることができるようになってからでした。

 

私は、実は割と最近まで、依存体質の人に好かれやすい性格でした。同じように機能不全家族に育っていて、ちょっとでも自分を分かってくれると感じた人と急激に距離を縮めようとする人が周りに沢山いました。依存されるのは苦しい、けれども依存するほうも苦しい。もしかしたら依存するほうが苦しいかもしれない。誰かに対して「この人に全てを分かって欲しい。全てを受け止めて欲しい」と思っても、それは決して叶えられるものではないからです。相手が自分の思い通りにならないと分かったとき、依存する側の気持ちは、突然憎悪に変わることがあります。依存被依存関係は、必ず両方がどうしようもなく傷ついて終わることが多いのです。

 

私も人と適切な距離が取れていなかった頃は、この関係を何度となく繰り返しました。大好きな人が突然憎くなる。あるいは自分を大好きと言ってくれていた人が突然自分を憎むようになる。

 

むかしの話ですが、私のことが大好きでたまらない、と言ってくれる友人から、手ひどい嫌がらせを受けたことがあります。本人は嫌がらせのつもりはなくて、「モビさんのことが大好き過ぎて、冷静になれなくなった」と言われました。そして、「私は母の愛情を受けられなかったから」「私は境界性人格障害だから」「私は鬱だから」というようなことを繰り返し言われましたが、私の気持ちは半年ぐらい立ち直れないぐらいボロボロになりました。そして、自分も全く同じような真似を他人にしたことが数限りなくありました。全て、関係は崩壊しました。

 

適切な距離感を身につけている人は、他人がここまで自分の中に侵入してくる前に、「私は、ここまで入ってこられるのはイヤだ」ときちんと自分で感じることができるのです。そして、自分からそっと距離を置くことができるのです。人との距離感が分からない人は、この「私は、イヤだ」という感覚を自分できちんと感じることができないのです。

 

あなたが大好きだったからやってしまった」と言われようと、「あなたのため思ってやってしまった」と言われようと、「私(=相手)が人格障害だからやってしまった」と言われようと、「私は、傷ついた」と自分を主語にして自分の気持ちを語ることができる人は、こういうことに巻き込まれたときに適切な身の処し方が分かるのです。

 

「そうなんだね、でも、私は傷ついた。私はイヤだった。」ときちんと返せる人は、自分とズブズブと依存関係にハマろうとする人間と、関わらずに済むのです。

 

「私」を主語にすることを知ってから、私は母と激しくぶつかることもなくなりました。

 

「お母さんはあなたが心配で」と言われたら、「そうなんだね、私は楽しいから大丈夫です。」と返せるようになったからです。

 

「お母さんはあなたのため思って」と言われたら、「そうなんだね、でも私はこうするから大丈夫です。」と返せるようになったからです。

 

機能不全家族で育ってくると、「あなたのため思って」というような主語のすり替えが家庭内で頻繁に起こってくるため、知らず知らずのうちに「私は」という主語を使うことがうまくできなくなってきます。「私は」という主語を使えないということは、自分の気持ちを感じられなくなっているということです。自分の気持ちが感じられなくなると、他人に侵入されてイヤだという気持ちも、他人に侵入してしまって心地悪いという感覚も、麻痺してくるのです。

 

「私」を主語にするということは、「私」の領域を確立するということ。

 

そして「私」の領域を確立して初めて、他者の領域も尊重できるようになるのではないでしょうか。